<8年目の桜>


もうすぐ終わってしまう・・・・。
もうすぐ会えなくなる・・・・。

この桜がすっかり、散ってしまう頃には・・・・・・。





用事なんか何もなかった
今日の力は使い切っていたし、必要な本は図書館で借りた。
寄っちゃいけないって分かってるのに・・・・行けば苦しくなるだけなのに・・・・
足は勝手に、いつもの道を辿ってた。



「奥の書庫にいらっしゃるんですけど・・・今、お呼びして参りますね?」
「あっ・・・いいです。私、自分で行ってきます。ちょうどお借りしたい本もあるし・・・。 」

案内に立とうとしてくれた女官さんを笑顔で押しとめて、私はいつもどおりに奥の間に続くドアノブを回した。
毎日のように通い詰めたこの部屋。部屋の主はとても優しい人で、決して来客を断ったりはしない。育成をお願いするわけでもないのに、用もなく立ち寄る私を、いつも温かい笑顔で歓迎してくれた。


樫の木の厚いドアをノックすると、中からは返事がない。
私はゆっくりと扉を押し開けた。



部屋の主はいつもどおり、そこにいた。
いつものように窓際の書見台に腰を下ろして・・・・・
だけどその日ルヴァ様は、本を読んではいなかった。
書見台に本を広げたまま、ルヴァ様の視線は広げた本の遥か上を掠めて、窓の向うの散り行く桜のはなびらを追っていた。


「ルヴァ様・・・・・?」

そっと声をかけると、部屋の主は驚いたように私のほうを振り向いた。

「あっ・・・ああ・・・・。アンジェリーク?」
「すみません・・・・勝手に入って来ちゃって・・・・・。」首をすくめて謝る私に、ルヴァ様は笑顔で手を振ってみせた。
「いいえー、構いませんよ。こちらこそすみませんでしたねー。気がつかなくって・・・・・・、ちょっと考え事をしていたものですから・・・・・。」
「・・・お邪魔でしたか?」
「いえいえ、とんでもない。・・・あなたならいつでも歓迎ですよー。」

『あなたなら』の言葉に、思わず頬が熱くなる。深い意味は無いんだって、分かっているはずなのに・・・・・。

「あの・・・・・ また本を見せていただきたくて・・・いいですか?」
「・・・・・ええ、構いませんとも・・・・何かお探しのものでも?」
「いいえ、その・・・ただいろいろ見せていただきたくて・・・・・。」
「そうですか?・・・じゃあ、ごゆっくりとどうぞ。私はここで本を読んでいますから、何かあったら声をかけてくださいね。」
「はい。」


本が見たいなんて嘘だった。
私は大きな書架の影に回り込むと、本棚の隙間からそっと振り返った。
書見台にゆったりと腰を下ろしたルヴァ様が見える。その姿を、私は夢中になって見つめ続けていた。

大きな温かい緑色の影。いつも優しく励ましてくれた声。ポンと頭に乗せられた大きな手のひら。心配そうに見つめる瞳。
・・・・・・いつの間に、どうしてこんなに好きになっちゃったんだろう?
こんなに・・・・どうしようもないくらい。



後何回ここに来られるか分からない。
早ければ1週間後には、私かロザリア、どちらかの建物が中の島にたどり着くだろう。
どちらかが女王になってここに留まり、どちらかは主星に帰ることになる・・・・。
どっちに転んでも、もうここに来ることはないだろう。こんな風にルヴァ様に会う事もできなくなってしまう・・・・・・。


不意に、厳かな鐘の音が響いてきた。
18時を告げる、聖殿の鐘の音。

私は我に返ったように、どっしりした書架を見上げた。
時間を忘れて見とれてしまったけど、いつまでもこうしているわけにも行かない。
早くお借りする本を決めて帰らなきゃ・・・・。私がここにいる限り、ルヴァ様も帰れないんだし・・・・・。

少なくとも、まだ数日ある。お借りした本を返しにまたここに来ることはできるはずだった。
自分に言い聞かせて書庫に向き直ってみたものの、読みたい本はなかなか見つからなかった。

だって、本当は帰りたくなんか無い。
許されるのなら、いつまでもずっとここにいたい。少しでも長く、少しでもそばにいたいのに・・・・。

それでも、背伸びして少し上の棚にある本に手を伸ばしたその瞬間。




大きな手のひらが、私の髪を、後ろからゆっくりと掬い上げた。
髪の間から差し込まれた指先が熱い。
びっくりして振り向こうとして・・・・・・私は自分が身動きもできないくらいぴったりと後ろから抱きすくめられていることに気がついた。


「・・・・・アンジェリーク」

私の髪に顔をうずめるようにしたまま、
低く、かすれるような声で、ルヴァ様が呟いた。
首筋にかかる息が燃えるように熱い。

「ル・・ヴァ様・・?」

「遠いところへ行ってしまうんですか・・・?
私が・・・・・『行かないで欲しい』って言っても・・・?」


急にルヴァ様が私の体を正面から力任せに引き寄せた。
その荒々しさに息が止まりそうになって、私は喘いだ。
すっぽりと抱きしめられた胸の中は温かくて、柔らかいインクの匂いがした。

硬い書架が背中に当たる。
覆いかぶさるようにして、ルヴァ様の唇が私に重なった。

柔らかくて、しっとりとした唇の感触。ひんやりして・・・でも、とても温かい。
頬に、後頭部に大きな手のひらが触れる。すっぽりとその中に包まれる。

魔法がかかったように動けずにいる私の唇に
何度も何度も、繰り返しルヴァ様の唇が押し付けられる・・・・・・。




不意に体が浮き上がった。
私を抱きかかえたまま部屋の一番奥まで進むと、ルヴァ様は長いすの上にそっと私を抱き下ろし・・・・・そして、すぐさま再びルヴァ様の体が覆いかぶさってきた。
私の唇を唇でぴったりと塞いだまま、ルヴァ様の手は私の制服の胸の辺りをせわしなく行き来していた。

リボンが解ける音がする。ボタンに指がかかったのが分かった。
ひとつ・・・ふたつ・・・・ルヴァ様の手で慌しく制服のボタンが外されてゆく・・・・・。

何が起ころうとしているのか、漠然とだけれど、分かった。
本当は、こうなることにちょっぴり憧れてもいた。
自分で想像して、それでドキドキして寝付けなかったことだってあるくらいだった。

だけど・・・・・
それはこんなんじゃなかった。
こんなんじゃ・・・・・。

ボタンが全部外れるのを待ちきれないように、ルヴァ様の手が慌しくブラウスの前をはだけた。
首筋の辺りを、ルヴァ様の唇が熱っぽく行き来している。
長いすの上にぴったりと押し付けられた体は、抵抗どころか身動きひとつ出来ない。
むしりとるように下着のフックを外されて、その中にひんやりとした感触を感じたその瞬間・・・・


「いっ・・・・・・いやぁあああっ!」



思わず、思いっきり叫んでしまった。
叫んだ後で、私は自分の声に弾かれたように、長いすの上に跳ね起きた。


体を押さえつけていた重圧は一瞬のうちにどこかに消え去っていた。
ルヴァ様は長椅子の前で膝をついたまま、呆然とした表情で私のことを見つめていた。
深い、深い、ブルーグレーの瞳が、とても悲しそうに揺れていた。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

ルヴァ様は二、三度大きく肩を上下させたかと思うと、ゆっくりと立ち上がり、自分の上着を脱いで、それで私の体を覆った。



「すみません・・・。」
搾り出すような声で、ルヴァ様が言った。

「忘れてください。・・・・・今更そんなこと言っても手遅れでしょうけれど・・・・それでもできたら忘れちゃってください。
大丈夫です。あなたはまだきれいなままですから・・・・。」



ルヴァ様の顔は真っ青に青ざめていて、表情はとても辛そうだった。
そんなルヴァ様を見た瞬間、私は後悔し始めていた。
別にルヴァ様は悪くない。ルヴァ様は悪いことはしていない。そうじゃなくて、悪いのはむしろ・・・・・


「あの・・・違います。」
声が震えるのを必死で抑えながら、私はルヴァ様の顔を見上げて言った。
「その・・・・『嫌』って言ったのは・・・ルヴァ様が嫌なんじゃないです!」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・ごめんなさい。思ってたのとちょっと違ったから、それでビックリしちゃって・・・・・それにルヴァ様、ずっと怖い顔してるし・・・・・わっ、私のこと好きでしてくれてるのか、それも良く分からなかったし・・・・・
でも私、ルヴァ様のことは、大好きです。好きでしてくれたなら、その・・・嫌じゃないです!」

「アンジェリーク・・・・・?」

「あの、だけど、もうひとつだけ・・・・私、今ロザリアと建物の数はおんなじなんです。多分選ばれるのはロザリアだと思うけど、もし私が女王に選ばれたら、私辞退しないって決めてるんです。
こんなこと言うの、厚かましいですよね・・・・私、頭悪いし、度胸もないし、優しくもきれいでもないし・・・・・だけど、もしそれでも私が選ばれたとしたら、それには理由があると思うから・・・逃げちゃいけないと思うんです。・・・・・逃げたくないんです。
だから、ごめんなさい。私、試験で勝っても負けても、ルヴァ様に何もしてあげられません。それでも良ければ・・・ルヴァ様の思ったとおりにしていいです。」

一息に言い終ると、私は大きく息を吸った。
「あの・・・だけど、できればあんまり怖くないように・・・・」


「アンジェリーク・・・・」

ルヴァ様は、じっと私のことを見つめていたかと思うと、ふいに両手を広げて私を抱きしめた。
さっきの激しさとは打って変わった優しさで・・・・。

「あなたは・・・あなたがきっと女王になります。」
懐に私を抱きしめたまま、ルヴァ様がささやくように言った。
「構いません。女王になってください。だけど、私は・・・私は・・・・」


「それでも、あなたを愛している・・・・」








私が即位した半年後に、ルヴァはサクリアを失った。


サクリアを失くした守護聖は聖地を去るのが定例・・・だけどルヴァはそれに逆らった。

「どこか人目に触れない場所で・・・山奥でも地下室でも構いません。決して人前に姿を現さないと誓います。ここにいさせていただけませんか・・・?」

ロザリアは反対も賛成もしなかった。
決定は女王である私に委ねられ・・・・
私は迷った挙句、ルヴァの望みを容れることにした。

ルヴァがどうしてそんなことを言い出したのか、本当のところは分からない。
あれから一度も二人きりで会ったことはない。
話をする機会はいくらでもあったけれど、私の前でルヴァはいつも守護聖としての態度を崩そうとはしなかった。
あの日「愛している」と言ってくれたことすら、幻だったのではないかと思うくらい・・・。

もし、ルヴァがあの時の気持ちを忘れずにいて、私のことを待とうとしてくれているのだとして、それが一体何年続くのか誰にも分からない。
女王が十年以上在位した例もないわけじゃないし、私は即位してまだ半年しか経っていないのだ。
いつまで続くとも知れない長い長い時間を、誰にも会わずに、一人ぼっちで・・・・・
私のために、そんな犠牲をルヴァに強いることなんてできない。


退任のその日、ルヴァを見送りながら、私は我慢できなくなって言った。

「つらくなったら、いつでも言ってくださいね。私のためなら・・・本当にいいんです。分かっていたことだから・・・・」
ルヴァは、歩みを止めると私を振り返ってにっこりと笑った。
「あなたもね・・?」
「・・・・えっ?」
「忘れてくれちゃって構いませんよー。私が勝手にすることなんですから・・・・・。何年先になるか本当に分かりませんしねー。あなたはあなたの思うとおり、気持ちのままにしてくれていいんですからねー。」
「ルヴァ・・・・・・」

「それより、あの・・・・・」
私の顔を覗き込むようにして、ルヴァ様が言った。
「・・・・ひとつだけ、私の我がままを聞いていただけませんか?」
「あ、・・・はい。何ですか?」
首を傾げる私に、ルヴァは再びにっこりと微笑むと、ターバンに結ばれた白い房飾りを、私のほうにそっと差し出した。
「・・・・・これ、ひっぱってみてくれますか?」
どうしてルヴァがそんなことを言い出したのか分からないまま、私は房飾りを握り締めると、言われるままにそっと力を入れた。

サラサラと布の擦れる音を立てて、柔らかな生地が滑り落ちた。
真っ白のターバンの中から零れ落ちる鮮やかなブルーの髪。
そこに立っているのは、見慣れた人のようでもあり、初めて会う人のようでもあり・・・・・
初めて見るターバンを取ったルヴァの姿に、私はしばしの間言葉もなく見とれていた。

「ありがとう・・・・」
晴れ晴れとした表情で微笑むと、ルヴァは昔の候補生だった頃の私にするように、ポンポンと軽く私の頭を撫でて・・・・・
そのままくるりと背を向けると・・・・確かな足取りで厚い鉄の扉の向うに消えていった。







そして・・・・・・

あなたは本当に、待っていてくれた。

太陽の光の射ささない研究院の地下室で、誰にも会わず、ひとりぼっちで
月に一度新刊を抱えて会いに行く私に、優しい笑顔と短い励ましの言葉をくれるだけで、指一本触れようとせず・・・・・


7年も・・・・。




そして8年目・・・・
今年もまた桜の季節がやってきた。


「今日病院で教えてもらっちゃった。男の子か、女の子か・・・・ねぇ?どっちだと思う?」
私の言葉にルヴァは慌てたように両手を振った。
「まだいいです。両方の場合を想像するの、楽しいじゃないですか・・・。だから、もうちょっと後で聞くことにします。」
「でもそろそろ買い物とか、準備しなきゃいけないし・・・・・」
「どうしても間に合わないなら両方買っちゃいましょう?男の子用と、女の子用と・・・大丈夫ですよ。名前も両方考えてありますから・・・・。」
「・・・・・・ルヴァったら・・・・。」
思わず噴出しそうになる私を、あの人は引き寄せるようにして抱きしめた。



8年目の桜がまた咲いた。
忘れずにまた、咲いてくれた。
どんなに月日が流れても、これだけは変わらない。
春が来れば花が咲くように



私はいつまでも、いつまでも、



あなたを愛してる・・・・・・・。



愛してる。






 

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