聖殿の北側にひっそりと聳える苔むした塔。 月に一度、そこにいる人物を訪ねるのが私の勤めとなっていた。 長い螺旋階段を登りきった塔の上、そこに「彼」がいる。
あんなにも穏やかで、心優しく かつては聖地でもっとも人望を集めた人物であった彼は、いまや狂人としてこの塔の上に人知れず幽閉されている。
皮肉なことに・・・・・、 狂ってもなお、ルヴァのサクリアが衰えることは無かった。 至高の知を司る、純粋なサクリアが 狂った彼の体内から夜毎につむぎ出される・・・。
「ほら、・・・ほら?ほら?・・・どうですか?アンジェリーク?これはあなたの大好きなものでしょう?毎晩欲しいって、あなたが言ったんですよ?」
金色の髪に緑の瞳を持つ少女。 その体内に己を突きたてながら・・・・・その時だけルヴァは溢れんばかりのサクリアを宇宙へ解き放つのである。
「答えなさい・・・・あなたが愛しているのは誰ですか?」 「・・・ル・・・ルヴァ様・・・・。」 「本当ですか?・・・嘘をついたらどんなことになるか・・・・・・」 「ひっ、嫌・・・・ルヴァ様。」 「ほら、ちゃんと言って御覧なさい。誰ですか?誰を愛しているんですか?」
「ひぃいいい・・・・・・・・・・」 階段を登りきったその瞬間、金色の長い巻き毛を振り乱した全裸の女性が廊下の角から転がり出て来たかと思うと、崩れるように私の装束の裾に縋りついた。
「お許しくださいっ!・・・お許しをっ!・・・ジュリアス様、お慈悲です。もう、・・・もうわたくし耐え切れません・・・」 私は肩から外したマントで女性の体を覆うと、ため息混じりに言った。
「・・・・あの者から目を離すなと言ったであろう・・・・」 「怖いっ・・・もう嫌です。わたくし、本当にあの方に殺されてしまいます・・・どうか!お許しを・・・・。」
全身をわなわなと震わせながら涙を滝のように落としている有様を見ると、私はまたひとつため息をついて、後ろの従者を振り返った。
「例のものは・・・用意してあるか?」 「はい。こちらに」 従者が捧げ持つものを見てうなずくと、私は女性をそこに残したまま廊下を更に奥へと進んだ。
「アンジェリークっ!アンジェリークがいない!」 ただひとつ灯りが漏れる部屋の中から、癇走った声が聞こえた。
私はドアのロックを解除すると、押し開けた。 「ジュリアス・・・・・」 私の姿を見るなり、ルヴァは青ざめた表情で詰め寄ってきた。
「ジュリアス、たいへんです。またアンジェリークがいません。きっと彼のところです。放っておくとアンジェリークは彼に殺されてしまう・・・・。」 「落ち着くのだルヴァ。彼女は陛下に呼ばれて行ったのだ。終ればすぐにお前のところに戻ってくるはずだ。」
「・・・・本当に、ですか?」 「ああ、そうだ。・・・・この私が請け負う。」 「生きて帰って来ますね?」 「もちろんだ。」
ルヴァは大きくため息をつくと、倒れこむようにテーブルの前に腰を下ろした。 少し落ち着いたらしい様子を見て、私も安堵とともに向かいの席に腰を下ろした。
「時々分からなくなるんですよ。」 「何がだ?」 「アンジェリークは本当は私たちのどちらを愛しているんでしょうね?」 「さぁ、・・・それは本人に聞いてみるしかないのではないか?」
「聞けば私のことを愛していると言うんです。でも・・・もしかしたら彼にも同じことを言っているかも知れません。」 「そうか・・・・女とは難しいものだな。」
「・・・・全くですよ。」 「しかし、いつまでもこのままでいるわけにもゆくまい。」 「それも、あなたの言うとおりです。」
「確かめに行くか?」 「確かめに・・・・ですか?」
私が目配せをすると、従者は二人の目の前にグラスを二つ並べ、それぞれに赤いワインを注いだ。 私はルヴァの目の前で、彼のグラスに懐から出した薬包を開いてサラサラと流しいれた。
「・・・・これを飲んで確かめにいけばどうだ?」 「・・・・・いいんですか?」 ルヴァが顔を上げて、正面から私を見た。 「構わぬ。私が一切の責任を持つ。」私はゆっくりと頷いた。
「・・・・・ありがとう。」 疲れ果てたような声で、ルヴァが言った。
「お前と乾杯するのは久しぶりのことだな。」 二人でゆっくりとグラスを上げて・・・・しかし、ルヴァはすぐにそのグラスを置いてしまった。
「ジュリアス・・・・笑わないでください。私は怖いんですよ。」
赤いワインが、小さな波を描いていた。グラスに添えられたままのルヴァの手は、静かに震えていた。 「彼女はきっと私のことを待ってはいない。彼女は今マルセルと一緒にいる。そんな気がするんです。
マルセルが言ったことは本当です。アンジェリークは本当は彼のことが好きだったのかも知れない。知っていたんです。それがはっきりとした恋心になる前に、自分のものにしてしまおうとしたんです。彼女が私を信頼しているのをいいことに、部屋を訪ねてきた彼女を抱きました。物語で読んだセリフをありったけならべて、自分がどんなに彼女のことを愛しているかを言い聞かせて・・・・・会えばかならず彼女を抱いて、手紙も書いて、仕事を手伝って・・・・彼女が冷静に考える隙もないくらい、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる・・・・・。」
「落ち着け、ルヴァ」 「要りません。・・・・私はこれは要りません。」 振り払った手が、ワイングラスをテーブルから床に弾き落とした。グラスが砕け、血のように紅い液が床に散った。 「ルヴァ・・・・!」
「アンジェリーク!・・・・どこに行ったのですか?アンジェリーク・・・・!」 悲鳴のように、甲走った声でルヴァが叫んだ。 「ルヴァ・・・。」 「あなたは私のものでしょう?そう、言ったでしょう?違うんですか?何故ですか?」
「ルヴァ・・・もう止めるのだ。」 「殺してしまえばよかった!あんな泥棒に抱かれる前に!そうすれば私だけのものだったのに! ・・・・アンジェリークを呼んでください。早く・・・彼のところに行こうとしているのかも知れない。」 ドアに取り付くと、ルヴァは鉄の扉を叩いて叫びだした。 「アンジェリーク!アンジェリーク!早くしなさい!あなたの大好きなことをしてあげますよ。女王陛下が地のサクリアをご所望です!」
「ルヴァ!」 ドアに張り付いて吼えているルヴァの襟首を掴むと、力任せに引き剥がした。 振り返ったその表情がみるみる恐怖に歪んでゆく。 「もう・・・終わりにするのだ。ルヴァ・・・・・。」 ゆっくりと襟元に手を掛けると、私は目を閉じて両手に力を込めた。
「何をするんですか!・・・ひっ、人殺し・・・ひと殺し・・・ひと殺しぃ」 彼は私を突き放そうと必死でもがいた。肩に食い込んだ指が激しく震えて・・・・そしてそれが次第に小さくなり、やがてその両腕は、力なくダラリと垂れ下がった。
「・・・・・・・・・・」 今はもう物言わぬその体をベッドの上に静かに横たえると、私は後ろの随従を振り向いて言った 「病気療養中の地の守護聖は亡くなった。私が最後を看取った。」
木漏れ日の降り注ぐ中、聖殿の中庭を抜けて二人の人影が歩いてゆく。
亜麻色の髪を長く伸ばした少女がふと足を止め、それにつれて先を歩いていた年配の女性も足を止めて振り向いた。 「どうかなさいましたか?補佐官様?」 「女官長、あれは何ですの?まるで・・・・お墓みたいですけど・・・?」
木立の中にひっそりと立つ質素な十字架を指差して、少女は小首を傾げた。 「あれは・・・前代の補佐官様のお墓ですわ。」 「前の補佐官様のお墓・・・・それが、どうしてこんなところに?」
驚いたように目を丸くする少女に、女官長はやや口ごもった後、こう告げた。 「その方は・・・・不名誉な亡くなり方をなさったのです。」 「そんな・・・だからと言ってこんな淋しい場所で・・・何だかお気の毒ですわ。・・・・あの・・・陛下はご存知なのですか?」
「お止めなさいませ・・・・女王陛下はその話題をお喜びになりませんわ。・・・・その方のことはいずれお話致しますから。」 明らかにその問題には触れたくないという様子で首を横に振ると、女官長はそそくさと話題を変えてしまった。
「さぁ、これで聖殿の近くは一回り致しましたわね。まだご案内していないのは研究院と図書館と・・・どうなさいますか?今日のうちに全部回ってしまいましょうか?」
「明日にしてもいいかしら・・・ごめんなさい。夕べついたばかりで、まだ荷物の片づけがほとんど済んでいなくて・・・・・。」 「よろしゅうございますとも・・・今日はさぞお疲れになったことでしょう?明日からは補佐官のお勤めが待っているのですから、今日はどうぞごゆっくりとお休みください。」
「有難う、女官長。明日からどうぞよろしくお願いします。」 「はい。こちらこそ・・・・。寮までお送りいたしましょうか? 」 「大丈夫ですわ。もう道は分かりますから。」
「では、わたくしはここで失礼致します。」 女官長が引き返して行ったのを見届けると、少女は静かに木立の中に足を踏み入れた。 まだ新しい木の十字架の下には、訪れる人もいないようで青草が無造作に生い茂っている。
「お気の毒に・・・・・・」 十字架の前に跪くと、少女は目を閉じて両手を組んだ。 瞳を開けて立ち上がろうとしたその時、少女の視界にきらりと輝くものが映った。 勾玉の形をした、深みのあるラピス・ブルーの輝石・・・それとも石じゃなくて、何かの実?
「・・・・綺麗・・・・・・・・。」 思わず手のひらに握り締めた瞬間、心の中を何かがズキリと駆け抜けるような気がした。 「あっ・・・・」
・・・・・立てない。急速なめまいを感じ少女はよろめいた。 「あ、あぁ・・・・あ・・・・・・」 輝石はぼうっと光を放って、その輪郭が徐々に光に解けてゆく。 いつしか輝石は少女の手のひらの中に溶け込んて、そこから唐突に緑の芽が萌え出した。
くるくると・・茎が伸び、葉が茂り、そこに紅の蕾が付き花が開く。 痛みはない。少女の表情は逆に恍惚としたものに変わっていった。
頭の中に誰のものだか分からない声が響く。
―――『誰ヲ?』 ―――『ナゼ?』 ―――『イツマデ・・・・?』
―――『・・・・愛シテル・・・・アイシテル・・・・・』
服を食い破って、葉が茂り、花が開いてゆく。 少女はゆっくりと立ち上がると、ゆるりと首を振った。 亜麻色の髪が開いたばかりの花の上に広がる。
―――『・・・・アイシテル・・・愛シテル・・・・愛してる、愛してる、愛してる・・・・・』 頭の中の声は、次第に速くなり、強くなる。
全身が火照っている。あやふやな脳裏に、つい先刻別れたばかりの人の姿が浮かび上がった。 光を弾く金色の髪。 紺碧の空を映す澄み切った瞳。 まるで少女の幼い頃からの憧れをそのまま人にしたような姿だった。 一目見るなり、少女は恋に落ちていた。
「ジュ・・・リアス・・・さま・・・・」
微笑んでつぶやくと、少女はもどかしげに靴を脱ぎ捨て、聖殿へと踵を返した。
そこに在るのは、歪んでもなお美しい世界。 悲しみを、鬱屈を、呪いを、祈りを、言葉に出すことを禁じられた想いを、 静かに 堆積しながらも、それでもなお透明な、きららかに透き通る澱―――。
Fin
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