10th stage:全部捨てて、僕は君を獲りに行く
Luva 「出て行け・・・・二度と顔を見せるな!」
そう怒鳴りながら、義父の顔には失望と同じくらいの安堵が滲んでいるような気がした。 「すみません。どうしても医者にはなりたくないんです。・・・ご恩はいつか別な形でお返しできるように努力します。」
「そんなことはいい。・・・もう親でも子でもない。二度とこの家の敷居をまたぐな。」 押し黙ってしまった父に向かって頭を下げると、私は部屋を出た。
廊下に置いてあった旅行カバンを手に取ると玄関に向かう。 最初から無理だと思ってた。医者になんかなれない。血を見ただけで吐きそうになるんだから・・・・。
嫌だといったら勘当されるのも分かってた。それでなくても私の存在は家族のみんなにとって負担なはずだった。 むしろここまで良く放り出さずに育ててくれたものだ。こんな可愛げも何も無い、心を開くことを頑なに拒んでいた私を・・・・・・。
玄関を出る時に、ちょうど外から帰ってきたらしい弟にはちあわせた。 「・・・・・・。」 「ジャレド!」
いつもどおり目も合わさずに擦れ違おうとする弟を、私は声を上げて呼び止めた。 私はメガネを外した顔で、ゆっくりと義弟の顔を見直した。
二十年近く一緒に暮らしてきた弟。だけど本当に正面から顔を見たのはこれが初めてだったような気がする。 「・・・・何だよ」 胡散臭そうに眉を寄せる弟に、私はゆっくりと笑いかけた。
「すみません。・・・・・私はこれまであなたのことを本当に弟だと思ったことは一度もなかったんです。」 「はぁ?」 「あなたがちょっぴり怖くて、羨ましくて、・・・・キライだったかも知れません。すみません。あなたのせいじゃないのに・・・・」
「・・・・何なんだよ、いったい・・・・・。」 「この家を出ることになりました。」 驚いたように弟は顔を上げた。 「オヤジは・・・オヤジが許さないだろう?そんなこと・・・?」
「勝手にしろって言ってました。もう息子でも何でもないって・・・。」 「・・・まじかよ・・・。」 「だけど二十年一緒に暮らしてきて、私たちはやっぱり家族です。ずっと愛してないと思ってきたけど、そうじゃない。今日初めて分りました。私から見ればあなた達は大事な家族です。」
相変わらず驚きを隠せずにいる弟に、私はもう一度ゆっくりと笑いかけた。 「落ち着いたら連絡します。この家の人間ではなくなりますけど、良かったらこれからもあなたの兄でいさせてください。困ったことがあったら・・・父さんや母さんに言えないことがあった時は、思い出してください。絶対に、あなたの力になりますから・・・。」
「・・・それじゃあ」 玄関をくぐると、足音が後ろから追いかけてきた。 「・・・待てよ!」 「・・・・ジャレド」
「・・・メールくれよな。」 ほどけたままの靴紐で、ジャレドが言った。 「落ち着いたらすぐ送りますよ」 「遠くじゃないんだろ?」
「市内です」 「・・・・俺、・・・・・・行ってもいいのか?」 「もちろんですよ。いつでも歓迎します・・・。」 「兄さん・・・・。」
ゆっくりと顔を上げて、ジャレドが私を見た。 「・・・・・ごめん。」 ためらうことなんか、何も無いんだ。 誰かを愛することは恥ずかしいことじゃない。
私は再びうつむいてしまった弟を両手で引き寄せると、力いっぱい抱きしめた。 
その晩。私はアンジェリークの家の前に立っていた。 鞄一つの荷物はアパートに置いてきた。 もしかしたら今日で両方無くしてしまうのかも知れない。
平和な生活と、愛しい人と、 だけどそれでも逃げるわけにはいかない。 今夜中にどうしても決着をつけなければ。
幹に手をかけると思い切ってよじ登った。 どっかの枝にシャツの袖が引っかかって破れる音がしたけど、そんなの構ったことじゃない。 木登りなんかしたのは小学校の時以来だった。
そうだ。あの頃の自分はとても正直だった。 自分が正しいと思うことに、欲しいと思うものにいつだってひたむきだった。 いつからだろう、思ったことを口に出さずに引っ込めてしまうのに慣れっこになったのは。
何もしないですぐにあきらめて・・・「どうせダメだ」って・・・試してみもしないで・・・。 だけど、これだけは・・・今だけは・・・ 逃げない。もう絶対に逃げない。何があっても。
部屋の明かりは消えていた。 もう眠っているのかも知れない。 メイワクかもしれない・・・だけど、それでも・・・。
彼女の窓の前までよじ登ると、私は幹に縋りついたまま、片手で携帯の短縮ボタンを押した。 ワンコールで、彼女が出た。 「先生?・・・・どうしたんですか?」
「今すぐ、どうしても会いたいんです。電話じゃ話せない大事な話があるんです。」 「分りました。どこに行けばいいんですか?」 少しも迷わずに彼女は即答した。もう深夜なのに。どんどん速度を上げてゆく心臓の鼓動を無視して、私は必死で言った。
「窓、開けてください。」 「えっ?・・・窓・・・?」 カーテンを開く音がして、押し開かれた窓からパジャマ姿の彼女がひょっこりと顔を覗かせた。
「せっ・・先生っ!」 「アンジェリーク。大事な話があります。」 頭にどんどん血が上っていく。声が引っくり返りそうになるのをこらえて私は言った。
「志望校のランク、一つ上げてください。大丈夫です。あなたなら受かります。私も精一杯教えます。」 「先生・・・。」 「いいですか?これからも授業の時は、私はあなたを合格させることしか考えません。そのためにベストを尽くします。あなたが好きだけど・・・・・大好きだけど・・・・そんな私情であなたの勉強の妨げになったら、あなたの為になりません。
それに、もっと即物的な問題もあるんです。今日家を出てきました。しばらくは研究室のバイトとあなたの家庭教師代だけで生活していかなきゃならないんです。今、クビになるわけにはいきません。」
「・・・・・・・」 アンジェリークは両手で口を押さえたまま、目をまん丸に見開いて絶句している。 わたしは畳み掛けるように続けた。
「医者にはなりません。血を見ただけで気が遠くなるんです。ゼッタイ無理です。なりたくありません。本当は化学の方が好きなんです。今日大学で転部の手続きもしてきました。
これからの予定なんですけど、あと2年、研究室で働きながら勉強して、それと平行して仕事も探すつもりです。どこか研究所みたいなところで働けたらいいと思ってます。あなたにゼイタクはさせてあげられないけれど、だけどせめて二人で一緒に暮らしていけるように、あなたを迎えにいけるように精一杯努力するつもりです。あなたが大学を卒業するまでには家ももうちょっと広いところに借り替えて、貯金もちゃんとしておきます。」
「・・・・せんせい」 「あの・・・順番、メチャクチャですね・・・。すみません。一応、考えてきたんですけど・・でも・・・・。」 今更軌道修正なんかできない。私はただ真っ直ぐにアンジェリークの瞳を見つめた。
「待っていてください。他の人は見ないで。私だけをずっと見ていて欲しい。あなたの一生を私にください。替わりに私の一生をあなたに捧げます。こんなんじゃ引き換えにならないかも知れないけど・・・だけど・・・私は・・・」
言葉が続かなくなって・・・・・ 閉店間際の花屋に駆け込んで買った一輪のピンクのバラの花を、私は窓辺へと差し出した。 予算の関係で花束に出来なかった。何だか気障で陳腐かも知れないけれど、紛れもなくこれは私の、愛する人に自分の力で贈る最初のプレゼントだった。
窓辺から真っ白な腕が伸びて来て、私が差し出す花を受け取った。 「私情を持ち込まないのは授業の時だけですよね?」
緑色の瞳から、すーっとひとしずく、透明な涙が零れ落ちるのを、私はまるで夢でも見ているような気分で見つめていた。 「今は授業中じゃないですよね?」
細い両腕が私の前に伸びてきて、静かに私を引き寄せた。 「・・・・・・・・・・」 触れた唇は、とても優しくて、柔らかくて
私はそれを夢中で味わった。 ・・・・愛している、アンジェリーク。
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