紅のしずく.5
Julious
事態は更に悪い方へと向かった・・・・。
すべては私の責任だった。言い訳のしようもない。
ジルオールが異端であることを見抜けなかったばかりか、彼を重用し、研究院の重要な仕事のほとんどを彼に任せてしまった。
その結果、何が起こったか・・・。
ジルオールの黒いサクリアを宇宙から一気に回収するという荒業は陛下のお体に計り知れない負担をもたらした。その上陛下は休もうともせず、失われた地のサクリアの替わりに自らのサクリアを宇宙に注ぎ始めた。
責任をとるべきだった。
少なくとも首座の地位は辞すべきだ。責任の所在を曖昧にしておくことは許されない。
次代の首座については既に陛下と話したこともあり、実は我々の見解は一致していた。
しかし・・・時期が早すぎる。
そのものの力量は、こと統率力に関してはまだ未知数であった。
結局、私は辞意を申し出るのを見送った。
個人の恥や周りの嘲笑が一体何だというのだ。
事態がここまで来てしまった以上、責任を誰に押し付けるわけにも行かぬ。
せめてこの状況を立て直した後で・・・罪を受けるのはそれからでも遅くはない。
私はサクリア以外のすべての陛下の業務を再び手元に引き取った。
こうして再び、不眠不休の日々が始まった。
私邸に戻るのは実に半月ぶりのことだった。
今月は戻る予定はなかった。たまたま必要な書類が私邸と聖殿に分散していて、持ち運ぶよりいっそ、必要な処理を私邸で済ませてしまったほうが効率が良い、ということになったのだ。
夕刻には戻るつもりが結局出るのが遅れて、ようやく到着したときには時刻は既に深夜に近かった。
玄関に飛び出してきて私を出迎えたのはいつもの通りコライユだった。昼過ぎまで聖殿の私の傍らで書類の整理をしていた彼女は、一足先に館に戻って私のために必要な書類を準備して置くことになったのだった。
「まだ起きていたのか・・・先に休んでいてくれて良かったのに・・・・。」
コライユの顔を見てなぜかほっとしているくせに、私はつい、いつもの小言めいた口調になった。
コライユは黙ってにこりと微笑んだ。
机上には既に必要な書類が整然と項目ごとに分類して並べられている。
最近ではコライユはすっかり私の仕事の仕方を飲み込んでいた。何を説明する必要もなく、すべてがいつも、私の一番やりやすい方法で準備されていた。
私はため息をついてデスクに向かって腰をおろした。
「・・・すまぬがエスプレッソをいれてくれないか?それが済んだら、そなたはもう下がって休むがよい。」
コライユは小首をかしげて困ったような眼差しで私を見た。
「あの・・・もう遅いですし、もう少し軽い飲みものになさって早めにお休みになった方がいいですわ。」
「休むために戻ったわけではない。ここでなければできない仕事があるのだ。」
つい苛々した言葉をぶつけてしまった後で、私は即座に後悔した。
忙しいのは自分の蒔いた種で彼女のせいではない。彼女に当り散らしてどうしようと言うのだ。
弁解しようとするその前に、目を丸くしていたコライユがふわりと微笑んだ。
「失礼いたしました。差し出がましいことを申し上げました。・・・・ただいますぐにご用意いたしますわ。」
もう一度にっこりと微笑むとコライユは優雅に身を翻して出て行った。
しばらくして戻ってきたコライユは、デスクの上にコトリとエスプレッソの小さなカップを置いたかと思うと、デスクの端の方に、もう一つ大振りの陶器のカップを遠慮がちに置いた。なみなみと注がれているのは、ほとんどミルクに近いようなミルクティーだった。
私はため息をつくと、エスプレッソのカップをすみに押しやって、ミルクティーのカップを手に取った。
コライユは嬉しそうな笑顔になると、今度はいそいそと自分も部屋の隅にある小さなテーブルの椅子に腰をおろした。見ればそちらのテーブルの上にも小さな書類の山が出来ている。
「何をしているのだ。・・・もう夜も遅い。下がって休むが良い。」
「でも、途中までやりかけてしまいましたの。こちらの書類は私でも何とかなりそうなものばかりですわ。こちらはどうか私にお任せください・・・。」
今しがた理不尽に叱りつけられた時にはニコニコと笑っていた顔が、唇を結んだ、いつもの一歩も引かない意地っ張りな表情になっていた。こうなったら最後、決して引き下がらないのがコライユなのだ。
私はため息をついてうなずいた。
「分かった。・・・しかし、ほどほどにするがよい。そなたに倒れられてはどうにもならぬ。」
「大丈夫ですわ。わたくしとても丈夫ですのよ。ここに参りましてから、風邪一つひきませんわ。」
コライユは嬉しそうに笑うと、胸をそらせた。
私たちはそれぞれに黙ってペンを走らせ始めた。
時折目を上げると、燭台の向こう側で、ややうつむき加減に黙々とペンを走らせているコライユのほっそりとした姿が目に入った。
こんな風に誰かにすぐそばで手伝ってもらったことはついぞ無かったような気がする。 誰かと一緒に何かをしたり、誰かに何かを頼む・・・ということが、実は自分は苦手なのかも知れない。
彼女とだと不思議と、それが苦にならない・・・・・。
馬車に乗っている間、体中に気だるく付きまとっていた疲労さえ心なしか薄らぐようだった。
仕事は思いのほか捗った。 最後の書類に署名を終えると、ちょうど向こうのテーブルでもコライユが書類の角をそろえて立ち上がりかけたところだった。
「できましたわ。あの・・・内容をまとめて、わたくしなりにお返事も書いてみましたの。 つたないと思いますが、もし使えるところがありましたら・・・。」
美しい筆跡で綴られた回答書は、どれも公文書の言い回しとしては若干ぎこちないところはあるものの、細かいところに目をつぶればそのまま使っても差し支えない程度ではあった。回答そのものも、ここのところ私の書類をずっと扱ってきたためか、大きく私の意図と外れるものはないようだった。
「・・・・・・・・」
私はねぎらいの言葉も忘れて、書類に見入っていた。正直ここまでやれるとは思っていなかったのだ。
「あっ・・あの・・やり直しますわ!」
頬を染めて書類を引っ込めようとするコライユの細い手を私はゆっくりとさえぎった。
「良い・・・。このまま出してもらって差し支えない。よく出来ている。・・・送るのは、明日でも良かろう。今日はもう休むが良い。」
「旦那様も今日のお仕事は終わりでございますか?」
「ああ・・・そなたのお蔭で今日は捗った。」
「ああ、ではもうお休みになれますね?」
コライユが心底ほっとしたような声を出した。もちろん自分が職務から解放されたのを喜んでいるわけではない。 この少女は、私が後数時間でも今日睡眠を取れるというそのことを、我がことのように安堵しているのだ。
誰かが自分のことを我がことのように案じてくれる・・・・。
それは痺れるような陶然とした感覚を私の心にもたらした。
・・・そして、それと同量の苦味が心の中に湧き上がって来るのを・・・・
私はどうすることもできなかった 。
――― 理由が知りたい・・・。
どうしてコライユは嫌な顔一つせずに、こんなにも私に尽くしてくれるのだろう。
その理由が、どうしても・・・焼け付くように知りたい。
「書類は私が片付けておきますから、旦那様はどうぞお休みになってください。」
嬉しそうにいそいそと書類を片付けているコライユに歩み寄ると、私は抑えきれずにそのか細い手を掴んだ。
「・・・なぜ・・・そこまでするのだ?」
「 ・・・旦那様?」
いぶかしむような表情でコライユが私を振り仰いだ。
「仕事だからか?・・・私を案ずるのが・・・・それもそなたの仕事だからか?」
「 あの・・・・おっしゃる・・・意味が分かりませんわ。」
「仕事だからなのか?ならば、・・・・例えば他のものならばどうなのだ?そなたが仕えるのが他の守護聖であったなら・・・そなたは同じようにするのか?」
「 ・・・お許しください・・・。痛い・・・。」
「答えよ!」
困惑しきった表情のコライユはなぜかいつにも増して美しく見えた。 大きく見開かれた菫色の瞳が燭台の灯りを受けて潤むように輝いていた。 睫が怯えるように震えている。
露を含んだ薔薇のように紅い唇。 一瞬、そのすべてが誘っているように思えた。 抗いがたいほどの力で引き寄せられる。
頤に指をかけて上向かせると、コライユは自分から静かに、ゆっくりと睫を伏せた。
引き寄せられるように唇を合わせそうになったその瞬間、 コライユの体が一気にこわばった。
「いやぁああああああ!」
悲鳴のような甲高い叫びをあげてコライユは身悶えると私の腕の中を滑り出した。爪が一瞬私の頬を掠めて、そこから真紅の血が滲んだ。
「いやぁ・・・いやっ!いやぁあ!いやああああ!」
「コライユ!」
「旦那様!」 悲鳴を聞いた雇人たちが駆けつけてきてドアを叩く。
私は思わず狂ったように身もだえして叫びだしたコライユを力任せに引き寄せると、手のひらで唇をふさいでドアに向かって叫んだ。
「何でもない!入るな!離れていよ!」
「旦那様・・・ですが・・・」
「何でもないのだ。驚かせてすまなかった・・・・戻ってくれ。」
ドアの前から人々が立ち去った頃合を見て、私はゆっくりとコライユを離した。
コライユはよろけるように数歩歩いて・・・テーブルに両手をついて肩を大きく喘がせた。
「旦那様・・・・」 泣きぬれたまま、コライユが顔を上げた。
打ちひしがれた真紅の薔薇・・・私はその顔をまともに見られなかった。
「部屋まで一人で戻れるか?」
たずねると、コライユはやや放心した表情で頷き、よろめきながら立ち上がった。 ガタガタと分かるくらい体を震わせながら、壁を伝うようにしてコライユはふらつきながら部屋を出て行った。
何ということを・・・・・。
私は思わず自分を呪った。
何ということをしでかしたのだ。
無理やり力ずくで・・・ しかも自分の館の使用人を・・・・。
そして・・・・。
考えてはいけない妄念が、ゆっくりと私の心を満たし始めていた。
あの反応は私の乱暴を差し引いても尋常ではなかった。
ここに来るまでの間、彼女の身に何があったのか・・・・。
私は何一つ知らないのだ。
実はこのことは考えたことがなかったわけではない。思い浮かぶたびに耐えがたく、無意識に頭の隅に追いやっていたのだ。
捕らえられ奴隷として売られていたコライユ。
あのような美しく高貴な美貌を持つ乙女が捕らえられそのまま無傷でいられるということが有りえるのだろうか?かつて非道な陵辱を受けたからこそ、あのようにあからさまな嫌悪を示してみせたのではないのだろうか?
・・・・ 想像もつかない。想像するのは不可能だ。
幼子のように無邪気なコライユ。誇り高く恐れを知らぬコライユ。聖母のように清らかで優しいコライユ。
馬鹿げている ・・・
これこそ嫉妬の生み出す醜い邪推というものではないか・・・・?
自分が醜い欲望に任せてやろうとしたことを棚に上げて、
そのような卑しい想像を働かすとは、あまりにも卑劣ではないか・・・?
私は頭を上げると、窓を大きく開け放った。
逃げるわけにはいかぬ。 夜明けまでには結論を出さねばならない。
自分に対しても・・・彼女に対しても・・・・。
コライユ・・・・。
振り向いた彼女の、泣き濡れた悲しげな瞳が目の前に浮かんできた。
傷つけるつもりなどなかった・・・・。
ただ、愛しかった。
自分だけのものだと思いたかった。
確かめたかった。
愛している・・・・。
そう。この感情が、そうなのだ。
私はコライユを愛している。
生まれて初めて、人を愛した。
もはや失うことなど、考えられぬほどに・・・・。
|