紅のしずく.8
Julious
ドアを開けると、そこにはコライユと見知らぬ麻の粗末な衣を着た老人が立っていた。
「何者だ・・・。」
「お久しぶりですねぇ・・・首座の守護聖どの。」
私の言葉に老人は皮肉な笑顔で答えた。その口調には・・・どこかしら聞き覚えがあった。
「ジルオール・・?・・・そなた・・・ジルオールなのか?」
「その節はたいへんお引き立てをいただいて・・・あなたのお蔭でずい分仕事がやりやすかったですよ。」
姿かたちは似ても似つかぬものの、口調や表情は確かにジルオールそのものだった。ただし、目の前のジルオールは言葉や表情にこもる毒を、もはや隠そうとはしていなかった。
「何をしに来たのだ?」
「お世話になった御礼に、ひと言忠告を差し上げに来たのですよ・・・。」
「何・・・?」
「光の守護聖どのは切れ者と伺っておりましたが、実はとんだお人よしだったわけですね。・・・あなた、私だけじゃなくてそこの女にも騙されたんですよ?ご存知でしたか?」
ジルオールに枯れ枝のような指で差された瞬間、コライユの肩が大きく震えた。
「・・・ちゃんと言ったのですか?その男に、あなたの正体を?」
「・・・やめて」
「国が滅び、賊にさらわれ、あちこちに転々と売り飛ばされてその都度弄ばれたと言ったのですか?」
「・・・お黙り!」
コライユの蒼白になった表情の中で、唇だけが紅かった。それがわななくように震えている。
「あなたの処女を奪ったのは1本の枯れ枝だったと言いましたか?酒興を助けるために大勢の男たちの前で全裸で踊ったのだといいましたか?さんざん玩具にされてもう何人に許したか数え切れないと言いましたか?
・・・・すごいですよ、この女。自分から私のベッドにもぐりこんできて、何て言ったか分かりますか?『抱かれないと眠れない体になっちゃった』って言うんですよ?
『せっかく生身の体を手に入れたんでしょう?楽しめばいいじゃないですか?』って・・・・そうしてこの女、自分から娼婦みたいに服を脱いで・・・・。」
「黙れ!」
「あなたも馬鹿な女ですねぇ・・・首座の守護聖・・・誇り高いあの男が、あなたのような身も心も腐りきった薄汚い女を相手にするわけがないでしょう?」
「・・・・・・・・・」
ゆっくりと口角を上げ、口辺に凄然とした笑顔を浮かべると
コライユはうめくように低い呟きをもらした。
「・・・・紅くなれ」
パリン・・・・
音を立てて、頭上で何かがはじけた。
コライユは拳を固く握り締めると、全身を震わせて叫んだ。
「全部!紅くなれ!!」
頭上でシャンデリアが、激しい音を立ててはじけた。
窓ガラスが砕け、壁にかかった鏡が音を立ててひび割れる。
床全体が地震のように激しく揺れ始めた。
ガラスの破片が雨のように降り注ぐ中、私はどうにかコライユの腕を引き寄せると、広げたマントの下にその体を引きずり込んだ。
「・・・やっとあばずれの本性を出しましたね。100年の恋も醒めるでしょうよ。」
サイドボードの上の陶器が一つずつ・・・音を立てて砕けていく。
その音を背景にジルオールの姿は少しずつ闇の向こうに溶けていった。
「・・・・コライユ。・・・気は済んだのか?」
静まり返った部屋の中
マントの下でコライユは体を固くして震えていた。
ガラスの破片でかすったのか、頬にうっすらと血が滲んでいる。
その血をそっと拭いながら、私は問いかけた。
今やっと分かった。
コライユはつらかったのだ・・・・ずっと救いを求めていたのだ。
それに少しも気づいてやれなかった。私はいつも、あまりにも自分のことばかりに精いっぱいだった。
「昔のそなたを、私にはどうすることもできぬ。私には過去を変える力はない。だが、これから・・・そなたを守ることならできる。誓って誰にもそなたを貶めさせたりはせぬ。・・・・それではだめか?」
どん、と音がしそうな勢いで、コライユが私の胸を押しのけた。
まっすぐに顔をあげたコライユは、心なしか唇をゆがめたまま、もう泣いても、震えてもいなかった。
「お美しい心根の光の守護聖様。あなたの哀れみなどほしくはありませんわ。男はみんな大嫌い。あなたのことなど愛したことはない!」
「私は愛している。・・・そなたを。 哀れみなどではない。・・・・とっくに用意してあった。これを・・・そなたに。」
私は懐から彼女に渡すつもりで用意してあった指輪を取り出した。
彼女が私を受け入れると言ったその直後から、渡す機会をずっと待ち続けていた。
一日も早く自分だけのものにしたいと、その約束だけでも取り付けたいと、焦がれるような気持ちで待って来たのだ。
「そなたの過去をすべてを知りたいとは思ったが、知ったからといって別段気持ちは変わらぬ。つらい思いをしたのなら余計大事にしてやりたいと願う、それだけだ。それは哀れみとは呼ぶまい。ただ愛しい・・・それだけだ。」
「・・・うそつき。」
乾いた、吐き捨てるような口調でコライユが言った。
「うそつきはそなたではないか・・・・?」
私は再びゆっくりと彼女に歩み寄った。
「そなたは最初から言葉では私を騙してばかりいた。本当のことは何も言ってくれようとはしなかった。・・・・しかし、そなたが私にしてくれたことは・・・それは全部、魂から出たことだ。そなたの涙に嘘はなかった。その魂を、私は愛した。」
「・・・・口付けできますか?」
挑むようにコライユが顔を上げた。
「私の穢れたこの唇に、誇り高いあなたが口付けできますか?」
「・・・そなたが許すと言うのなら。」
踏み出した瞬間、コライユは急に怯えたように一歩後ずさりした。
「ジルオールの言ったとおりですわ。・・・何人の男と口づけしたか、数え切れません。・・・私が受け入れたのは・・・・唇だけではありませんでした。」
「コライユ・・・私の赤い薔薇。」
腕の中に捕らえた瞬間、コライユは顔をゆがめて泣き出した。
「・・・止めて・・・・お願い・・・・。」
全身が凍えきって震えている。
涙で溢れかえった幼子のような瞳。
救いを求めて震えている魂。
その魂を、私は今度こそ、力ずくで引き寄せた。
どんなに抗おうと、もう決して離さない・・・。
紅の花弁にそっと唇を重ねる。
これまで誰も与えてやれなかったくらい、優しく・・・温かく。
金色の柔らかい髪を撫でながら。
震えるか細い体をしっかりと抱きしめて。
溢れる吐息をすべて吸い取るように
何度も・・・何度も唇を合わせた。
「わたくし・・・・こんなに・・・こんなに穢れてしまって・・・・。」
「どこが穢れているというのだ」
引き寄せて・・・また口づける。
睫にたまった涙を吸い取って
・・・また、口づける。
「そなたはまだ本当の愛も知らぬ・・・・・無垢なのだ。
私とともに生きてくれ・・・・そなた無しでは生きてはゆけぬ。」
「温かい・・・・。」
長い口づけの果て
私の胸に頬を寄せたまま、静かにコライユが呟いた。
「生まれてくるんじゃなかったと悔やみました・・・・。だけど違った。 ・・・・幸せですわ。」
「コライユ・・・」
私の胸から顔をあげると、コライユはゆっくりと微笑んだ。
「さようなら。ジュリアス様・・・。」
「・・・まだそのようなことを・・・?この指輪を見たであろう?これは我が家に代々伝わるもの。当主の夫人が身につけるものなのだ。」
差し出した指輪を、コライユは笑いながらゆっくりと押し戻した。
「私は闇との誓約を破ってしまいました。・・・この体はもうわたくしのものではない。・・・わたくしがこの世界にいられる時間は後わずかです。」
「コライユ・・・」
小さないくつもの光の輪が彼女の周りに浮かび上がってきた。
「ジュリアス様・・・どうかもう一度お顔を見せてください・・・。どうぞ・・・笑って・・・時間がありませんわ。
その指輪は、誰か他の方に差し上げて・・・・。・・・わたくしがいなくても無理をなさらないでね。どうぞ、幸せでいらして・・・。 」
コライユの周りを飛び交う光の輪が数を増して来た。コライユのほっそりとした体はゆっくりと光の中に溶けかかっているようだった。
「コライユ・・・これを・・・。」
私は咄嗟にほの白く発光し始めたコライユの手のひらを握り締め、その薬指に無理やり指輪を押し込んだ。
「ジュリアス様・・・」
「まだ間に合う!誓うのだ。・・・・愛していると言ってくれ!私の妻になってくれ!」
「・・・いけません。」
「頼む!私だけのものになってくれ・・・・そなたが必要なのだ!私は・・・そなたしか愛せない。」
光の渦の中、コライユが大きく瞳を見開いて私を見た。
「・・・・よろしい・・・のですか?」
「早く!誓うのだ!もう時間が無い!」
ためらいをかなぐり捨てるように、コライユが顔を上げた。
くっきりとした長い睫に縁取られた菫色の瞳が、まっすぐに私を見つめる。
「ジュリアス様・・・愛しています。お誓いします。永遠にあなたをあ・・・い・・・・・。」
腕の中で光がはじけた。
カラン―――
冷たい金属音を立てて、リングが床に転がった。
・・・・・間に合ったのだ。
私達の結婚式は24時丁度に終わった。
そなたは私のたった一人の妻となった。 これでもう嘆き悲しむことはない。 寂しくはなかろう・・・。
コライユ。私の赤い薔薇・・・愛しい妻。
そなたはもう、ひとりではないのだから・・・。
私はゆっくりと床に落ちたリングを拾い上げ、口付けた。
リングからキラリと、紅い光のしずくがあふれだして、床に届く前に消えた。
まるでコライユの・・・愛しい妻の涙のように。
=完=
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