紅のしずく.7
Corail
逃げ出したい・・・・。
心底、そう思った。
聖殿でいつもどおりにお仕えしていて、私は何度も泣き出しそうになった。
想いが叶った幸せな恋人同士を演じなければいけない。
あの方に向かって微笑みかけたり、甘えて見せたりしなければいけないのに・・。
そんな手管はいくらでも知り尽くしていたはずだった。
女を知らない、世間知らずの首座の守護聖を篭絡するのはたやすいことのはずだった。
それなのに・・・
結局私は、またしてもあの方の口づけを拒んでしまった。
嫌・・・絶対に・・・・。
あなたとだけは、それは絶対にできない・・・。
疲れたから今日は下がらせて欲しいと嘘をついたら、あの方は自分の方がどこか痛んでいるような表情をした。 焼け付きそうな眼差しだった。それを見ただけで息苦しいほど胸が痛くなった。
私は控えの間に戻る振りをしてこっそり馬車を呼ぶと飛び乗った。
もう我慢できない・・・・。
光の守護聖の屋敷に帰りつくと、私は「旦那様の忘れ物を取りに戻った」と偽って、あの方の書斎に滑り込んだ。
最後に何か一つ、あの方の思い出になるものが欲しい。
そして何とかしてここを抜け出そう。
たどり着く先がどんな地獄でも構わない。
ここよりはましなはずだった。
書斎の中はあの方の空気で溢れていた。
ここにいないあの方の気配に包まれて私は目を閉じた。
世間の評判なんかみんな嘘だった。
ジュリアス様は、人が言うような強い人でも厳しい人でもない
溢れるような優しさを生真面目に押し殺す、不器用で善良な人だった。
あの方は自分が得することなんて一つも考えていない。
頭の中はいつも他人のことばかりで一杯だった。
誤解されて、煙たがられて・・・・だけど他人から自分がどう思われようと、それはあの人にとってはどうでもいいみたいだった。
いつも相手のこと・・・それしか考えていないから・・・。
守って差し上げたいと思った。
あの方が他人のことしか考えられないなら、
私があの方のことを、考えて、守って差し上げたいとそう思った。
・・・本気でそう思った・・・自分の立場も忘れて・・・。
デスクのペン立てからいつもあの方が使っていたペンを抜き取ってハンカチに包むと、私はそれを胸に抱きしめた。
――― 「今度はこそ泥の真似ですか?・・・お里が知れますよ。」
いきなり背後から浴びせられた声に、私ははじかれたように振り向いた。
「ジルオール!」
「いけませんねぇ・・・。こんなところで何をしてるんですか?あなたの任務はあの男に張り付いていることでしょう?」
戸口の辺で腕組みをして立っていたジルオールは、枯れ木のような皮膚の奥の瞳を鋭く光らせると、私に向かってゆっくりと歩み寄ってきた。
「今夜。・・・今すぐに、決着を付けてください。これ以上長引かせても意味はありません」
「・・・・・無理ですわ。」
「大丈夫。・・・あなたが一向に動こうとしないから、私がお膳立てを組んでおいてあげたんですよ。」
突然、門の外に馬車の音を聞いて私は総毛だった。
窓にかけよると、馬車からあの方が慌しく飛び降りてくるのが見えた。
思わず部屋を飛び出そうとする私の腕をジルオールが捕らえた。
「潮時ですよ・・彼にそろそろ本当のことを教えてあげたほうがいいんじゃないですか?」
慌しくドアをノックする音と共に、あの方の声が聞こえた。
「コライユ・・・」
「来ないで!」
震えながら私は叫んだ。
「コライユ・・・どうした?何があったのだ?なぜ黙って屋敷に戻った?」
知られたくない・・・。
ジルオールとここにいるところをあの方にだけは見られたくない。
全身が凍りつきそうになりながら、私はもう一度、悲鳴のように叫んだ。
「入って来ないで!」
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