20.僕のお父さん(1)

yuli

僕にはお父さんがいない。

おぼえはあるんだ。・・・・ちょっとだけ、だけど。
僕が覚えているお父さんは大きな・・・とにかく、とっても大きな人だった。
大きくてあったかい手をしていた。
時々、その手で僕をなでてくれた。
それしか僕は覚えていない。

母さんは僕の自慢だった。
ごみごみした裏町の長屋で、母さんはダントツに美人だった。
きれいで優しくて面白くていい匂いがして・・・僕は母さんが大好きだ。
母さんは近所で「天使」って呼ばれてた。
お姫様みたいな美人なのに、けらけら笑って、マシンガンみたいに良く喋って、スカートのすそをからげてぴょんぴょん飛び歩いて、とにかく一時もじっとしちゃいないんだ。
「子供のユーリのほうがよっぽど落ち着きがあるぜ」
近所の人にそうからかわれると、母さんはいたずらっ子みたいに舌を出して笑った。

寝る前の数十分、母さんはベッドの中で僕にいろんな話を聞かせてくれた。
どこかで聞いたことがある話もあれば、あきらかに思い付きの作り話みたいなのもあったけど、どれも素晴らしく面白かった。母さんの想像力は尽きるってことがなかったし、せりふ回しときたら絶妙で、僕は何度も布団を叩いておなかを抱えて死ぬほど笑い転げさせられた。

母さんはいつも機嫌が良くて、僕は母さんの怒った顔や泣いた顔は見たことがない。
母さんはよっぽどのことじゃないと僕を叱らなかった。
「卑怯なことをしないこと、それとずるいことしちゃだめ。」
母さんの教育方針はそんな大雑把なものだった。
僕が多少好き嫌いしても、夜更かしをしても、まず叱られることは無かったし、近所の子と転げまわってシャツを破いて帰っても来ても
「やってくれるじゃない・・・・」と苦笑いして、おでこをこづかれるくらいのものだった。

とにかく、僕と母さんはとても楽しくやってたんだ。
母さんが引越し好きでやたら引越しが多いことを除いては、僕にはなんの不満もなかった。
父さんがいないのは、別に「そういうものか」と思うくらいで、僕は何とも思ってなかった。

・・・・あの日まで。

お父さんがいない・・・そのことで、僕は一度だけとてもとても嫌な思いをした。今でも思い出したくないくらい・・・怖くて、嫌なことがあったんだ。

そのとき引っ越してきたばかりで辺りがものめずらしかった僕は、堤防の向こうがどうなっているのか探検に行こうと思ったんだ。遠くにある橋を渡ろうと堤防の下の小道を走っていたら・・・・
堤防の上にいきなり一団の大きい子達が走ってきて、僕に向かって石とか泥の塊とか投げ始めたんだ。

「何するんだよー」
叫んでる間にも体のあちこちにひっきりなしに石が当たって、痛くて僕はすぐに泣き出しそうになった。

ところがその子達は、僕が頭を抱えてうずくまったのを見ると、喚声をあげながらわらわらと堤防の上から駆け下りてきたんだ。
最初に近づいてきた子が、足で僕の背中を思い切り蹴った。
その後はもう、訳がわからない。
固く握った拳が続け様に降り注いできて、誰かが僕の足を引っ張った拍子に、僕はどさっと音を立ててぬかるみの中に這いつくばった。
顎に小石が当たってそこから血が出てきた。

何でこんなことされなきゃいけないのか、僕にはさっぱり分からなかった。
近所の子とケンカして取っ組み合いになったことはあったけど、こんな大勢が僕一人にかかってきたのは、これが初めてだった。しかも、みんな知らない子たちで、その半分くらいは僕より年上の体の大きな子達だった。
「何でっ!」
何本もの手が僕をぬかるみに押し付けようとする中で、僕は必死になって言った。
「どうして!・・どうしてこんなこと・・・するのっ?」

「シセイジ!」

誰かが叫んだ。
頭を押されて、口の中にドロが入ってきた。
じゃりっとした嫌な感覚に僕はげほげほとむせ返った。
死んじゃうかもしれない、と、一瞬ぞっとした。
「お前シセイジだろ?」「お前の母さんがフシダラして生まれた子だろ?」
「何だよ!それっ!」
全然わけが分かんなかった。いったいみんな僕が何したって言うんだろう?
もう息が出来なかった。固く押さつけられた手足が痛かった。ずいぶんドロを飲み込んで吐気がした。 僕はじたばたと手足を動かしながら、思わず必死で叫んだ。

「やめろー!!」

叫んだ瞬間に、僕の体にある異変が起きた。
指先から急に音もなく、黒い霧みたいなものが湧きあがってきたんだ。
体がものすごく熱くなる。
黒い霧は、ものすごい勢いで後から後から噴出してきて、それを見たみんなは悲鳴を上げて腰を抜かしそうになりながらバタバタと走って逃げていった。

体が・・・熱い・・・・。
僕は荒い息をつきながらよろよろと立ち上がった。
霧は僕と一緒に立ち上がって、あっという間に僕の体を押し包んだ。

まるで闇が僕の周りだけに立ちこめたみたいだった。
僕は心臓が止まりそうなくらい怖かった。
「助けて!」
叫ぼうとした言葉はのどに引っかかってかすれて消えた
闇はべったりとぼくに絡み付いてきて、その中にぼうっと真っ赤な目みたいなものが浮かび上がってきた。

赤い目は僕を見て、目だけでにやりと笑った。
そいつは僕に向かって何かを言った。

よく聞こえなかったんだけど

(欲しくないか・・・・・?)

そんなことを言ったように聞こえた。

(お前が絶対手に入れられないもの・・・・それが欲しくないか?)

手に入れられないもの・・・?欲しいもの・・・・?
僕にはさっぱり分からなかった。
汗がじっとりとにじんで、そのくせ体が凍りいたようにガタガタと震えた。


「いやだー!」
叫んだ直後に、僕はそのまま気を失ってしまった。



back   next

創作TOPへ