26.紅のしずく(2)
Julious
ようやく机の上の書類が片付いた頃には、時計の針はすでに午前を指していた。
休む前に・・・・。
私は立ち上がると、慌しく外套をはおった。
この半月、愛馬達の顔を見ていない。休む前に様子だけでも見ておきたかった。
馬達を驚かさないように供もつれず厩舎に向かった私は、厩舎の入り口がわずかに開いているのに気がつき首を傾げた。
不用心なことだ・・・・。
扉を閉め忘れるなど、これまでついぞないことだった。
ゆっくりと厩舎の扉を開け・・・・その向こうにある光景を目にして、私は思わず言葉を失った。
カンテラのほの白い明かりが、金色の髪と練り絹のような白い肌を 照らし出していた。少女は華奢な両腕を白馬に向かって差し伸べ、白馬は甘えるようにその鼻面を少女の小さな頭に押し付けていた
おもむろに少女が口を開いた。
「分かっているわ。お前のいう通りよ。あの人は意地悪で言ったんじゃないわ。そういうお役目だから仕方がないのね。」
少女は白馬の逞しい首をあやすように手のひらで撫でながら、歌うような柔らかい口調で話していた。
「でもわたくしは聞いていて悲しくなったの。まるでわたくしが信用がならないと言われたような気がしたの。それで口惜しくなって、あのような失礼なことを言ってしまったのよ。それはお前も分かってくれるでしょう?」
白馬が少女の金髪に鼻先をこすりつけるようにすると、少女は小さく鈴を転がすような笑い声をたてた。
「おお、よしよし。慰めてくれるの?有難う。お前は偉いのね。ちゃんと人の役に立って喜ばれて生きている。それに引き換えわたくしは・・・・。
」
少女が黙り込んだのを潮時に、私は一つ咳払いをすると声をかけた。
「何をしておる。」
少女は驚いたように振り向いて・・・・・私の顔を見かけたとたんに、慌てたように唇を結んで先ほどの挑むような表情になった。
「夜が明けたら・・・すぐに出てゆきますわ。」
「その必要はない。」
「えっ?」
「そなたの信用を保証するというものが現れたのだ」
「それは・・・?いったいどなたが?」
私は、先ほどからしきりと少女の金髪に鼻先を押し付けている、白馬を指差した。
「レイティアスは私以外の誰にも懐かぬ。このようなそぶりを見せたのは・・・そなたが初めてだ。馬は嘘をつかぬからな・・・。」
自分でも自分が妙なことを口走っているということには気がついていた。自らが決めたおきてを自ら破るというのか?
しかし・・・この時私は、確かに彼女を信頼できると感じていた。 「信じよ」と、何かが私に告げていた。
少女の目が見る間に丸くなった。
「・・・・・ここに置いていただけるのですか?」
答えるより先に、私はこの少女にひとつ言い忘れたことがあったのを思い出した。
「美味であった。」
「何が・・・でございますか?」
少女が首をかしげる。
「そなたのいれたエスプレッソが、だ。・・・たいへん美味であった。」
そう、それはたいそう美味であった。・・・・ それだけは彼女に伝えたいと思ったのだ。
一瞬の沈黙の後、少女ははじかれたようにまっすぐに体を起こした。
「あの、・・・もう一杯いかがでございますか?わたくし、ただいますぐにご用意いたしますわ。」
慌てたようにそう言うなり、今にも身を翻して駆け出しそうな少女を見て私は苦笑した。
「このような夜更けにか?よい。・・・今日はもう休むがよい。明日またいただこう。・・・・行きなさい。」
「はい。・・・あの、・・・旦那様。・・・お休みなさいませ。」
ドレスのすそをつまんで淑やかに頭を下げると、コライユは顔を上げて私を見て・・・そしてニコリと嬉しそうに微笑んだ。頬がわずかに上気している。潤んだ瞳が月を映して輝いていた。
その表情は思わず視線が引き寄せられるほどに美しかった。
私は思わずぶしつけに見入ってしまいそうになった自分を恥じて、今度は幾分厳しい口調でいった。
「もう夜も遅い。早く戻るがよい。」
―――翌朝早く、部屋にエスプレッソを運んできたのはコライユであった。
長い髪を新米のメイドらしく堅く結い上げたコライユは、美しくお辞儀をすると、デスクの端に、エスプレッソのカップを置いて数歩下がった。
下がらずにそのまま盆を握り締めて、固唾をのんでこちらを見守っているのは・・・私がエスプレッソの感想を口にするのを待ってでもいるのであろうか?
私はいささか落ち着かない気持ちで、湯気の立つカップに口をつけると、ごく正直な感想をもらした。
「ふむ・・・・美味である。」
そして、言い終わった瞬間、私は仰天した。
目の前の少女は、あろうことか盆を固く握り締めたまま、肩を震わせて泣き出してしまったのである。
私は慌てて椅子から腰を浮かせた。
「なっ、何故泣くのだ?今のは・・・叱ったのではないぞ?」
コライユの両手がわなわなと震えて、そこから金の盆が転がり落ちた。コライユはそのまま両手で顔を覆ってしまった。細い指の間から涙があふれて床にこぼれた。
「どうしたのだ?コライユ?私は何かそなたを不快にさせるようなことを申したのか?」
思わず歩み寄って泣き顔を覗き込むと、コライユは激しく体ごと頭をふった。
「ちが・・・違う、のです・・・。わたくし・・・。」
そう言うとコライユは両手を伸ばして、私のひじのあたりを、シャツが皺になりそうなほどの勢いで、ひしと握り締めた。・・・・・指先が、震えている。
「わた・・くし・・・嬉しい・・ので・・ございます・・・。」
そのまま「あ〜ん」といった子供じみた泣き声をあげて、コライユは泣き出してしまった。
当分泣き止みそうな気配はない・・・。
ふりほどくわけにもいかぬ・・・。
どうせよ、というのだ・・・・。
私は目の前ですすり上げている少女をどうすることもできずに、しばしただ途方にくれて佇んでいた。
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