.最後の約束(1)
Luva
灰色のコンクリートに囲まれた湿っぽい倉庫。
その中央に、ぼんやりと白い影が浮かび上がっていた。
「・・・・・・・・。」
あなたの名前を呼んだつもりが、声にならなかった。
部屋の中央の柱に頭を下に逆さに縛られたアンジェの体は、すっかり血の気が引いて、白蝋のようになっていた。
白いブラウスのあちこちがむごたらしく裂けて、赤黒く変色した血が滲んでいる。
頭のちょうど下の辺に、乾いて黒ずんだ血溜りができていた。
繊細な鼻筋から額にかけて一筋の血の跡が乾いて貼り付いていた。
昔蛮族の間でよく使われた拷問だった。
頭頂部に傷をつけるこの方法だと、全身の血液が頭部に集中した状態でも何日も死ぬことは無い。最後の瞬間まで地獄のような苦しみに耐えなければならない。
・・・・・なんということを・・・・
そのあまりに残酷な光景に、私は体中の血が逆流しそうだった。
駆け寄ってロープを切ると、アンジェリークの体はふわりと私の腕の中に落ちてきた。
そのあまりの軽さと冷たさに、私は息が止まりそうになった。
抱きかかえて心臓に耳を押し当てると、
・・・・ そこはもう冷たく冷え切って、何の反応も無くなっていた。
「・・・アンジェ・・・リーク・・・・。」
冷え切ったただでさえ華奢な体は、聖地にいた頃より確実に一回り痩せていた。白い顔は透き通るように青ざめて見えた。
この5年間、幼いユーリを抱えて、ひとりでどれだけ苦労したのだろう。
どれだけ心細い思いをして、どれだけ泣いたのだろう。
そして、それはすべて、私のせいなのだ。
5年間、 あなたは私を少しも疑わず、ひたすら私を待って耐えてくれていた。
それなのに、私は・・・ほんの1年も不安に勝てず、あなたを裏切ってしまった。
アンジェリーク。
全身の震えが止まらない。
何もかもが遅すぎた。
すべては終わってしまった。
冷たくなったアンジェリークの体を抱きしめたまま、私はゆっくりとその場に座り込んでしまった。
本当はあなたを愛したのはいけないことだったのかも知れない。
本物の天使だったあなたを、自分だけのものにしようとした・・・・それが間違いだったのかも知れない。
私と一緒にいても、あなたにはいいことなんか一つもなかった。
私はあなたの大事なものをひとつひとつ全部奪って、
苦しめて苦しめて ・・・・一人ぼっちで死なせてしまった。
私はゆっくりと長衣の合わせを解くとあなたの冷え切った体を懐に包んだ。
今更、もう間に合わないけれど、冷たく冷え切った体があまりにも可哀想だった。せめて自分の体温を少しでも移そうと、氷のような体をもう一度抱き直した。
多分このままあなたの後を追ったとしても、私たちはもう二度と会うことはないだろう。
あなたはきっと神様のすぐそばに呼ばれるだろうし、そこには私の席はない。
だけど、今だけは。
最後のその瞬間までは。
あなたを抱いていてもいいだろうか?
あなたは許してくれるだろうか?
ふいに懐の中で通信機が耳障りな音を立てた。
「・・・・ルヴァなのか?」
飛び込んで来た声はオスカーのものだった。
別れてまだ1年も経たないのに、妙にその声が懐かしく感じられた。
「オスカー。今からこの艦を攻撃してください。
敵は新しい地の守護聖を狙っています。・・・断じて渡してはいけません。
私は艦内の最奥部にいます。燃料庫からも離れた位置です。
先端のコントロールルームを狙ってください。 運がよければ大破せずにここは残ります。 運が悪くても、・・・・・それでも・・・・あなたに感謝します。」
「・・・・分かった。」
はっきりと応えながらも、オスカーの声はかすかに語尾が震えていた。
「オスカー。あなたに通信を入れた子はユーリです。あの子を頼みます。」
「承知した。」
「・・・有難う。」
通信機を切ると、私は床にマントを敷いて、その上にアンジェリークの体をそっと横たえた。
オスカーに言った言葉は半分は気休めだった。
かなり老朽化しているこの船は、衝撃に耐えられず大破するだろう・・・。
ターバンを外して、かぎ裂きだらけで寒そうなアンジェの体に巻きつけると、手巾を水筒の水で湿して、あなたの顔や体についた血をゆっくりと拭った。
あなたはいつだって身なりをきちんとしておきたがった。
血のついた顔のままでいるのは、不本意に違いなかった。
指で長い巻き毛を撫で付けると、あなたは段々昔の、幸せだったあの日々の穏やかで優しい表情を取り戻してきた。
そう・・・あなたはいつも笑ってた。
いつだって、本物の天使のように優しくて温かかった。
アンジェリーク・・・。
もう一度、冷えた体を温めようと抱き上げたその拍子に・・・・
『コ・・・・・トン・・・・・・』
無音の倉庫に小さな音がしたような気がして、私は顔をあげた。
彼女の唇がふいに小さく動いた・・ような、気がした。
(・・・・あい・・・してる。)
・・・・・そう、聞こえたような気がした。
彼女は微笑んでいるようだった。
「あ・・・い、してる・・・。」
はっきりと、唇が動いていた。
「ル・・・ヴァ・・・・。」
今度はもう少しはっきりした声で、・・・・彼女が私の名前を呼んだ。
優しい・・・笑顔で。
「アン・・・ジェ・・・・・」
幻かも知れない・・・。
でも、もう止まらなかった。
涙が後から後から溢れ出て、あなたの白い頬を濡らした。
私は涙を拭うのも忘れて、もう一度アンジェリークの心臓に耳を押し当てた。
かすかに心臓の音が聞こえる。僅かに体もぬくもりを取り戻していた。
まだ終わってない。・・・・あなたを救えるかもしれない。
私は跳ね起きるとゲートに駆け寄った。
たとえ1パーセントでも、0.01パーセントでも、可能性があるのなら
・・・・生きて欲しい・・・・あなたには・・・。
がらんどうの倉庫の中には身を隠せそうなものは何もない。
ゲートをきっちりと閉め直す。
錆付いた非常扉のロックを汗だくになって外すと、ゲートに重ねて固定した。
倉庫の隅に積まれた布袋を引きずり出して、横たわっているアンジェリークの周りに積み上げる。
それだけ済ませると、 私はアンジェリークの傍らに駆け戻った。
ほんの少し、頬に赤みが差してきている。
まるで幸せな夢を見ているように、あなたははっきりと笑顔を浮かべていた。
アンジェリーク。 愛している。
愛している。あいしている。
あなただけを、片時も忘れず。 永遠に・・・・。
今度こそあなたを救うことができないかも知れないけれど
でも少なくとも、もう決してあなたを一人ぼっちにしたりしない。
最後まで、・・・・・離さない。
私は彼女の体を全身で包み込むように深く抱きしめ、
最後に、唇を唇で覆った。
―――そして、閃光が二人を包んだ。
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