<シーソーゲーム.1>
1.始まりは暗がりの中のキスだった。
それはまだ蒸し暑さの残る9月のことだった。
私、アンジェリーク・リモージュは、当時市内の短大に通う女子大生だった。
卒業を控えて就職活動に追われる毎日。
だけど会社勤めする自分が今ひとつ思い描けなくて・・・何となく漠然とした不安を感じ続けていた毎日の中で・・・・・
唐突に、あの人が現れた・・・。
まるで夜空を滑り落ちる彗星のように・・・・・。
(遅くなっちゃった・・・。)
真っ暗なビル街に自分の靴音だけが響いてる。私はいつとはなしに足を速めていた。
友達と一緒に、大手製薬会社に勤める先輩を訪ねて会社訪問した帰り道だった。 センパイに飲みに誘われて、飲めないくせにつきあって、部活の近況や先生の噂話なんかに花を咲かせているうちに、気がつけば門限の時間が迫ってた。
まだ飲み足りなさそうな友達を置いて、一足先に店を出た私は、その瞬間からいきなり道にまよっていた。
高層ビルが立ち並ぶオフィス街はお店が閉まるのも早い。 深夜に近いその時間帯、あたりは人気も無く真っ暗だった。
(・・・・・・・・。)
私は心細くなって、また足を速めた。
駅はこんなに遠くじゃなかったはずなのに・・・・。
人気の無いその道にはタクシーさえ通りかからなかった。
その時―――、
ワンブロック先のビルの壁伝いにキラッと光が走って、私は吸い寄せられるように顔を上げた。
壁を・・・人が降りてくる?
ビルの壁を、人影がロープのようなものをつたって、まっすぐに滑り降りてくる。
薄暗がりの中、月光とぼんやりした街燈の影がビルの壁にすらりとした人影を映し出していた。
まるで映画のワンシーンみたいだった。
目をこらしてみると、同じビルの上の階の窓から、黒っぽい服を着た男性が半身を乗り出して壁にはりついた人物を見ている。その手に大きな銃みたいなものが抱えられているのを見て、私はぎょっとした。
もう一度、・・・無音の闇の中で光だけが走った。
壁の一角で火花が散った。
ほとんど 同時に、ロープを掴んでいた人物は壁を蹴って弾みをつけると、器用に壁の角に回り込んで相手から身を隠した。そのまま片手でロープをあやつりながら、垂直の壁を滑るように降りてゆく・・・・。
窓際で覗き込んでいた男はあきらめたのか、身を翻して暗い部屋の中に消えていった。
――― これって何?
私は突然目の前で繰り広げられた信じられない出来事に硬直しきっていた。
撮影か何かかと思ったけど、それらしい車もスタッフの姿も見えない。
光ったのは確かに銃みたいだったし、壁を降りていく男性の命をねらったとしか思えなかった。
警察に・・・電話しなくちゃ。
携帯電話を探そうとして、私は緊張の余りからだが震えて動けないことに気がついた。
とにかく逃げなきゃ・・・・・。ここにいたら危ない。
分かっているのに、足がすくんで動けない。
――― カッ・・・カッ・・・カッ・・・
静まり返ったビル街に、足音が反響しながら近づいてくる。
私は僅かに後ずさりした。
「・・・・・・・・!」
角を曲がっていきなり姿を現した人物は、私の姿を見ると、驚いたように足をとめた。
街燈の淡い光がぼんやりとその人の姿を映し出した。
その人はとても背が高くて、すらっとした体型をしていた。
黒いスーツを着て、ハンチングみたいな帽子からのぞく髪は、珍しいブルーだった。
遠目でよく見えなかったけど、確かにあの壁をつたっていた人物のようだった。
その人は、慌しく後ろを振り向くと、ふいに大股にこちらに歩み寄ってきた。
「・・・・すみません」
やわらかい声が耳元で聞こえたかと思うと、
その人はいきなり硬直している私の体を抱き上げた。
「なっ・・・なにを・・・」
叫びかけた私の口を、大きな手のひらがふさいだ。
その人は私を抱き上げたまま、通りに面した公園の垣根を支えもなしにふわりと飛び越えた。
私を放すとその人は、一瞬でかぶっていた帽子を地面に投げ捨て、上着を脱いだ。脱いだ上着は袖から裏返って、それまでの黒からまるで遊び人みたいな淡いベージュのジャケットに替わった。
上着を着なおすが早いか、その人は唖然としている私に再び向き直った。
再び体がふわりと浮き上がる。
えっ・・・・?
体が仰向けになって、スローモーションみたいに芝の上に横たえさせられる。 ベージュの上着を着た大きな体がふわりと覆いかぶさってきた。
――― 病院で使う消毒用のアルコールの香りがした。
何っ?えっ?
――― 声を出そうとした瞬間、 柔らかい、温かいものが私の唇をふさいだ。
耳元を慌しい足音が通り過ぎていく・・・。
まだ唇をふさがれたままの私は、息苦しさに身じろぎして・・・・やっとその人は私から唇を離した。
「・・・・・・・!」
叫ぼうとした瞬間に、今度は手のひらで口をふさがれた。
口に当てられた手は軽く添えられているようで力は全然入っていないみたいなのに・・・それなのになぜか私の体はもがいても地面に押し付けられたままびくとも動けなかった。
その人は、私の頭を手のひらで地面に押さえつけたまま、首を伸ばして垣根の向こうを見回していたかと思うと・・・・やがて、そっと手のひらを離した。
「・・・・すみませんでした。」
その人は私を抱え起こすと、いきなり私に向かって深々と頭をさげた。
「あの・・・すぐにここを離れた方がいいです。一本向こうに大きな通りがありますから。」
「・・・・・・・・。」
唇を押さえたまま声も出せずにいる私に向かって、その人は困惑したような表情を浮かべたかと思うと、ポケットをまさぐって何かを引っ張り出すと、私に向かって差し出した。
「あの・・・これ、使ってください。 消毒用のアルコールです。・・・危険なものじゃありませんから。」
じゃあ、と一礼すると、背の高いその人物はビルの角を曲がってあっと言う間に見えなくなってしまった。
キス・・・・してしまった。
唇を押さえたまま、私は呆然と立ち尽くしていた。
キスしてしまった。キスされてしまった。 見知らぬ人に・・・。
初めてだったのに・・・・・。
|