「やっぱり行くんじゃなかった」そう思った。
余計つらくなるだけじゃない。
ちらっと見ただけで、ふるえるくらい好きだった。
泣きたいほど好き。
本を読んでいるときの彫像のような端整で穏やかな横顔、ページをめくるしなやかな意外とがっしりした指先。高いのに落ち着いた声。困ったような顔も、やさしーい笑顔もみんなみんな苦しいくらい好き。
だけど今日のルヴァ様はまるで初めて合う人のように遠い存在に思えた。
急にひとりぼっちになったような気がした。
今まで迷ったときにはいつもルヴァ様が助けてくれた。
泣きたい時はいつもそばで泣き止むまで髪をなでてくれた。
こんなでたらめな育成の仕方をルヴァ様だけは認めて励ましてくれた。
そばにいるといつも暖かくって心地よくて、そのくせくすぐったくて・・・どうしようもなく大好きになってしまった。
謹慎で会えなかった2週間は胸の中が寂しさでちりちりと痛んだ。
執務室の掃除に来るたびに主のいないあの部屋でルヴァ様の残り香を感じて何度涙をこぼしたことだろう。
私は強くなんか無い。女王なんて、てんで向いていない。何かの間違いでこんなところに迷い込んでしまったけど、あの人がいなかったらとっくに駄目になっていた。あの人が見ていてくれたから頑張ってこれたのに。
だけどもう大好きなあの人には嫌われてしまった。これからどうしたらいいんだろう・・・。
ぼうっとして歩いていたら、後ろから軽快な馬のひずめの音が近づいてきた。
「よう。お嬢ちゃん」
声をかけてきたのは炎の守護聖オスカー様であった。
「どうしたんだ?元気がないな?」
「あ、いえ、そんなことないです。」しおたれているところを人に見られたくなくて、私は無理に笑顔を作ろうとしたけど、自分でも上手くいってない気がした。
「ふうん。」オスカー様は、すこし怪訝な表情で私を見た後、 「どれ」と言って、いきなり私を横抱きに抱き上げた。
「きゃあ。きゃああ。止めてください。オスカー様。なっ何をなさるんですかあ!」
びっくりしてきゃあきゃあ叫ぶ私の声をものともせず、オスカー様は私を抱いたまま馬の背にすらっとまたがった。
「しっかりつかまってろよ、お嬢ちゃん。少し飛ばすからな」言うなり、馬は私とオスカー様を乗せてけっこうなスピードで走り出した。
馬の背から見ると、景色はみんな違って見えた。耳元で風が鳴り。あっという間に景色が変わる。
最初のうちこそ怖くてオスカー様の胸にかじりついていたけれど、だんだん気分が爽快になってきた。
「気持いい」
「そうだろう」オスカー様がニヤっと笑った。「気分が優れない時には遠乗りが一番さ」
この人、私が落ち込んでいるのを見て励まそうとしてくれたんだ。暴れたりして悪かったな。 ちょっと反省した。
森の湖を抜けてどのくらい走ったか。かなり遠くまで来たような気がする。
見晴らしのいい小高い丘まで来て、オスカー様は馬を止めた。
がっしりした腕に支えられ、馬をおりる。
「わあ。きれい・・・」まずその景色の美しさに圧倒された。
「だろう?だけど、俺に言わせれば、その景色の中でもひときわ鮮やかに美しいのは、お嬢ちゃん。キミだな。」
また始まった。お世辞とは分かっているけれど嬉しくないはずはない。 私はくすぐったくてくすっと笑ってしまった。
「なんだ。お嬢ちゃん本気にしてないようだな」
私が何を考えているかオスカー様には分かったらしい。
「まあいいさ。自分の魅力に気がついていない・・・。そこが俺にとっては付け目というわけだ。」
本当にこの人にはかなわない。聖地中の女性が騒ぐのもうなずける。
あっと言う間に夕闇が迫ってきた。
「風が出てきたな」オスカー様は着ていたマントを脱ぐとふわりと私の肩にかけた。
「だめですよ。オスカー様が寒いじゃないですか」
「レディーに風邪を引かすわけにはいかないからな」オスカー様は絵に描いたようなウインクを決めて見せた。
「あの。今日は本当に楽しかったです。有難うございました」
この人のおかげで泣きべそをかいたまま一日を過ごさなくて済んだ。心なしか元気も出てきた気がする。素直に感謝した。
「アンジェリーク」ふいにオスカー様に名前を呼ばれた。
なぜか胸がどきっとする。
名前で呼ばれたのは初めてのような気がする。気が付いたときにはオスカー様の秀麗な顔が目の前にあった。
これって、この距離って・・。肩を軽く引き寄せられ、あごにオスカー様の指がかかった。
不思議な感覚。無理強いではない。軽く肩に添えられた手には力はこめられていない。ふりほどけばふりほどけるのに、逆らえない。
「アンジェリーク」再び名前を呼ばれた。
手のひらから熱が伝わってくる。
ふいに、脳裏を影がよぎった。静かで端整な横顔・・・。
「だ、ダメです。ダメです。私はダメなんです」意味不明の言葉を乱発しながらばたばたとみじろぎをしてオスカー様の腕の中をすり抜けると、私は魔法が解けたようにはあはあと浅い息をついた。
「あの、私・・。ごめんなさい。」走り去ろうとする私の腕をオスカー様が捕らえた。
「待ってくれ。アンジェリーク。悪かった。もうしない。もう少し・・・ここにいてくれ。」
その時のオスカー様の顔を見たとたんに、私は動けなくなってしまった。
いつもと違う、真剣な・・・・そして、ほんの少し、さびしそうな顔・・・・。私はまたしても魔法にかかったように動けなくなってしまった。
「言っておくが遊びでキスしようとしたわけじゃないぜ」
しばらくの沈黙の後、オスカー様は再びいつもの調子に戻ってそう言った。
(やっぱりキスされるところだったんだ)私は今更ながら冷や汗が出た。
「だけど無理強いするつもりは無い。今後君のいやがることはしない。だから・・・また会ってくれるか?」
また、さっきのあの目だった。私は黙ってうなずいた。
寮の近くまで戻ってきたときにはすっかり夜になっていた。
初夏とはいえ風が吹くと少し肌寒い。私はオスカー様に部屋によってくれるように誘った。私にマントを貸したまま数時間風にふかれていたオスカー様に、ちょっと温まっていってほしかった。
「アンジェリークの部屋か。魅力的なお誘いだが。レディの部屋を訪ねる時間にはちょっと遅すぎるかな。残念だがまたの機会にするか。」
オスカー様は先に馬からおりるとマントにつつまれて荷物のようになった私を馬上から再び抱きかかえるようにして降ろした。
そのまま・・私の手をとったままじっと私の顔をみている。
「オスカー様?」
ふいにオスカー様は私の手の甲に唇を押し付けた。
「このくらいならいいだろう」すかさずにやりと笑ってウインクしてみせる。
全く、油断もすきもない。 私もつられてくすっと笑ってしまった。
その時、背後でかさりと木の葉を踏みしだく音がした。
長身の緑色の影。ルヴァ様だ。
どこに行くのか小脇に数冊の本をかかえたルヴァ様は、私達の姿を見て少し驚いたようだった。
確かに私達と目が合った、はずなのに、ルヴァ様は何も無かったようにくるりと曲がると、ロザリアの部屋につづく、となりの入り口に姿を消していった。
「ほう・・・。ルヴァもやるもんだな」感心したようにオスカー様がつぶやく。
私は胸にとげが刺さったようにちくんと痛んだ。
「アンジェリーク。気が変わった。やっぱりお茶をごちそうになっていこう。」
呆然としていた私はオスカー様の声ではっと我に返った。
Luva
私はいったい何をしているんだろう?
一日悶々とした末、結局夜になってから「資料だけでも届けよう」と言い訳を作って、アンジェリークに会いに来てしまった。
どうしても、ひと目でもいいから彼女に会いたくて・・・。
ところが夜だと言うのに彼女は不在で、私は又彼女はどこに行ったのだろう、誰かと一緒なのだろうかとあれこれ狂おしい物思いに捕らわれていた。
どうしてもあきらめきれずにあたりをそぞろ歩きしてまた戻ってきてみたら、丁度アンジェリークが戻ってきたところだった。
しかし、アンジェリークは一人ではなかった。
オスカーが彼女の手に口付け、彼女がにこやかに微笑むところを見て、私は頭の中が真っ白になった。
彼らが私に気がついてこっちを見た瞬間。私はまたとんでもない天邪鬼な行動を取っていた。 明らかに目が合ったくせに、私はふたりを無視して道を曲がるとロザリアの寮のドアに向かってしまった。
後ろめたさを感じながらロザリアの部屋のとびらをノックする。顔を出したロザリアは私のこんな時間の訪問を怪訝に思ったようだったが、開け放ったドアから聞こえてくる馬のひづめの音や隣がにわかににぎやかになった気配を聞くと、もう一度私の顔を見て、やおらにっこりと微笑んだ。
「まあルヴァ様。ようこそお越しくださいましたわ。どうぞお入りください。」
「あー。すみません。ロザリア。こんな遅くに来てしまって。あなたはもう休むところだったでしょう。」
「いえいえ、まだ宵の口ですわ。」
ロザリアは玄関先で帰るつもりだった私を、有無を言わさず部屋にひっぱりあげた。
「お茶でもどうぞ。あいにく緑茶が無くて紅茶なんですけれども・・」
「ああもうどうぞ、おかまいなく・・・。すぐ帰りますので・・・。」
「まあ、せっかくいらしたんですから、そうおっしゃらないで・・・。」
ロザリアのいれてくれたお茶はすばらしくおいしかった。本当にこの人は何をやらせてもそつが無い。
「それで・・・どうなさいましたの?」落ち着いた頃をみはからって彼女が訊ねてきた。
「それは、、どう、ということもなくて、その・・・」
「分かってますわ。あのお馬鹿な子のことですわね。あの子は今日行きませんでしたの?」
「いえ。その、来ていただいたんですけど、私がその・・・。」
私は言葉が続かなくなって持ってきた資料の束をロザリアに押し付けるように渡した。
「これ・・・あなたがたの育成に役に立つかもしれません。どうぞご覧になってください」
それじゃ・・・と、私はあわただしく立ち上がり、逃げるようにロザリアの部屋を後にした。
Angelique
オスカー様は私の部屋で、私がいれたカプチーノを飲んで「美味しい」と誉めてくれた後、
「これ以上ここにいると理性がもつか心配だ。君に嫌われないうちに退散しよう」と早々に立ち上がった。
さっきから隣のロザリアの部屋が気になってしょうがない私は、オスカー様には申し訳ないけれどちょっとほっとした。
出掛けにオスカー様は私のほうを見て、やけに真面目な表情で言った。
「アンジェリーク。もう一度言うが、金輪際君の嫌がることはしないと約束する。だから、確認しておきたいんだが、、、」
「何を・・・ですか?」私は首を傾げた。
「もう一度誘っても嫌がらないか?」
「はい。もちろんです。」
「じゃあ、あさって、日の曜日に俺の私邸に来てくれ」
「えっ?」急な話に私はびっくりした。私邸ってことは・・・オスカー様のお家?
「決まりだな。じゃあ、日の曜日、迎えに来る」
戸惑う私を尻目にオスカー様は流れるような動作で馬に飛び乗ると、馬上からウインクしてみせた。
「俺が忘れさせてやるさ」良く聞き取れなかったけど何かそんなことをつぶやいた。
それって何?どういう意味?混乱する私を残して、オスカー様は去っていった。
翌日、土の曜日、夜に入って視察から戻ってきたら、部屋に立派なリボンのかかった大きな箱がいくつも届けられていた。
寮母さんの字でオスカー様からです。と、メモがついている。
胸騒ぎを覚えながら包みをほどくと目も醒めるような鮮やかなローズピンクのドレスが出てきた。
すとんとしたシンプルなラインのスリップドレス。すそだけがアシメトリになっていて片足がひざ上まで出てしまうけど、それほど極端に胸や背中が開いているというわけでもない。色合いが華やかな割にはごく上品なデザインだった。
(これを明日着て来いってことかしら・・・。) 多分そうだろう。
デザインが大人っぽすぎて、少し・・というかかなり恥ずかしい。
恐る恐る鏡の前であわせてみると、シンプルなドレスは意外に自分に似合って見えた。
どうしよう・・・・。 私は鏡の前で途方にくれてしまった。
日の曜日。
私は結局オスカー様に贈られたドレスに身を包んでいた。
せっかくの好意を無にするのは悪かったし・・・・とても綺麗なドレスだったので、正直なところ着てみたかったのだ。着てみたら意外と似合う気がしたので、誰かに見せたくなったのだ。
我ながらバカだと思う。懲りないと思うけど、誘惑に勝てなかった。
私はドレスに合わせてちょっぴりお化粧をして、口紅だけいつもより少し赤い色にした。
一緒にプレゼントされた白いレースのショールを合わせていると、オスカー様が馬車に乗って迎えに来た。
この日のオスカー様はいつもの軍服ではなく私服を着ていらした。真っ白なシャツにノータイでジャケットを無造作にはおった姿はめちゃくちゃ決まっていた。もともとすごくハンサムで格好いい人だとは思っていたけど、すごすぎる。私は急に自分がとても貧相に思えてきた。
オスカー様は私を見ると満足げに微笑んだ。
「オリヴィエの気持がわかるな・・・。」
「なんですか?」と私が聞くと
「連れまわして見せびらかしたくなる」
「だっだめです!」私はこの間のことを思い出して背筋が寒くなった。
「冗談だよ。今日は姫君を城にさらって独り占めだ」
オスカー様は優雅に私の手をとって、馬車へと誘った。
また、一瞬―――脳裏をあの静かな横顔がよぎった。
胸がちくんといたむ。
私は思わず隣にいるオスカー様を振り仰いだ。
この人だったら、忘れさせてくれるんだろうか・・・・。
忘れられるんだろうか・・・。