14.森の湖

Luva


会いたい。ただ彼女に会いたい。
毎日それしか考えられなかった。
アンジェリークが日の曜日にオスカーの私邸に行ったらしい、と誰かから聞いた時は、胸に何かが刺さったような痛みを感じた。
嫉妬がこんなに苦しいものだとは本で読んだだけじゃ到底分からなかった。

ここ数週間というものろくに本も読めていない。夜は眠れないし、食欲もない。誰かに話し掛けられても気がつかないし、集中できないから歩いていて何度も物にぶつかったり躓いたり。今朝は部屋履きのまま家を出て、執事が靴を持って追いかけてきた。


毎日王立研究院に行ってエリューションの状況をそれとなく確認し、育成が順調なのを見ては安心して戻るというのが最近の私の日課になっていた。
そろそろ地の力が足りなくなってきたかと思う時は、こっそりエリューションにサクリアを送っている。こんなことをすればますますアンジェリークの足が遠ざかるのは分かっていたが、ちょっとでも彼女の役に立ったかと思うと心が慰められた。
本を読む気が起きない分、育成に役立ちそうな資料をとにかく片っ端から集めて抜書きを作った。私が渡したのでは受け取らないかもしれないけれども、パスハにでも頼めば彼女も見てくれるだろう。


そんなある日・・・・。ディアが私の執務室にやってきた。女王試験について経過の中間報告書を受け取りに来たのだ。
最近集中力が欠けている私はこのレポートをいつもの倍近くの時間を費やしてやっと夕べ書上げたばかりだった。
ディアは私の寝不足の顔を見てひどく心配した。
「なにか最近ひどくお疲れのようですね・・・・・少し、お休みなったほうがよろしいのではありませんか?」
「そうですかー。いや、そんなこともないかと思いますけど・・・・。」
「あら・・・?」ディアは私がたった今渡したレポートに目を落とすと、ちょっと首を傾げた。
私は瞬間目の前が真っ青になった。夕べレポートを書きながら何度も思考がまとまらなくなって、その時に一度、ちょうど紙一枚分くらいアンジェリークの名前を書きまくってしまったような気がする。外したつもりだったが一緒に綴じてしまったのだろうか。
「あ、ああのー。すみません。そそそれ、ちょっと返してください。」
私はディアの手からレポートをひったくるように取り返すと、慌ててページを繰った。
果たせるかな、アンジェリークの名前を書きなぐったページが出てきた。
私は赤面して、そのページをむしりとった。
これまで提出物は何度も確認して出すのが常だったのに、本当に我ながら何をやってるんだろう。
ディアが驚いたような顔でこちらを見ている。 私はおずおずと切り出した。
「あの・・・・何かへんなものを・・・・ご覧になりましたか?」
ディアは微笑むとゆっくりうなずいた。
「ルヴァ様。表紙だけ逆向きに綴じてありますわ・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・」

私はディアに詫びると再び書類を綴じなおした。
「やっぱり、お疲れなんですわ。明日はお休みされては如何ですか?今のところ地の力は安定しているようですし・・・・陛下には私から申し上げておきますから。」
何度も勧められるうちに、私も段々そんな気になってきた。 なにしろこの状態じゃ、いつ、どんなヘマをやらかすか知れたものではない。
私はその場で休暇願いを書くとディアに託した。

ディアは出掛けに私のほうを振り向いて言った。
「ルヴァ様。お疲れの時はゆっくり睡眠をとられるのが一番ですけど、もっといい方法もありますのよ」
「睡眠より効果的な方法ですかー?なんでしょうねー?」
「早起きして森の湖に行くんです。あそこは静かで朝の空気がすがすがしくて、疲れなんか一度で吹き飛んでしまいますわよ。」
「そんなもんですかねー。」
「そうですとも。騙されたと思って、明日是非試してみてくださいね。」 ディアはにっこり微笑むと出て行った。

私はこのいつも笑みを崩さない穏やかで落ち着いた女性が急に「朝のお散歩」なんて少女じみたことを言い出したので少し意外に思った。だけど彼女が言うことだし、たまには朝からしゃっきりするのもいいかもしれない。 私はなんとなくそんな気になっていた。




翌朝早く私は森の湖に行った。
ディアの言ったとおり、湖に向かう小道を、早朝の朝露を踏んで歩くのはさわやかで、久しぶりに少し心が晴れる気がした。たまにはこんなのも悪くない。
朝の空気を思い切り吸い込んでいると、ふと滝のふもとに誰かがいるのが目に入った。

「こんな朝早くに自分以外にも物好きがいたものだ」と目を凝らしてみると人影は誰有ろうアンジェリークである。
私は呼吸が止まるような気がした。
しかも彼女は胸の前で両手を組んで、滝に向かって何か熱心に祈っているようであった。
私の足音にアンジェリークが振り向いた。
アンジェリークは驚いたように私を見ると「すごい。ディア様の言ったとおりだ・・・。」と、意味不明の独り言を言った。

私は予想外の彼女の出現にすっかり泡を食っていた。急で何の心の準備もしていなかったので、なんと言っていいのやら分からない。「おはようございます」と、普通にあいさつするには既に間が開きすぎていた。
心臓が早鐘を打っているのが自分でも分かった。

すると突然「ボートに乗りましょうか?」うつむいたままアンジェリークが言った。
「はあ・・・・」私は曖昧にうなずいた。

ボートが遠く岸を離れるまで、私達は二人とも無言のままだった。
湖の中央まで漕ぎ出たあたりで、まず彼女が口火をきった。
「・・・・ごめんなさい。」うつむいたまま、ほとんど消え入りそうな声だった。
「えっ?」彼女がなぜ謝るのか分からなくて私は聞き返した。
「私のこと・・・怒ってますか?」
ほとんど1ヶ月ぶりにアンジェリークはまっすぐに私の顔を見た。 真剣な表情。長いまつげ。大きな瞳。訳のわからない問いかけ。私は激しく混乱した。
「私が?あなたを?どっどうして?そんなはずないじゃないですかー」
「きらいになったんじゃないですか?」
アンジェリークは真剣な表情で私を見つめている。 瞳が泣きそうにうるんでいる。私は呼吸が止まりそうなほどの胸苦しさを感じた。
「あなたを嫌いに?どうしてまたそんなバカなことを・・・。」
「嫌われたんじゃないんですね」
「嫌ってなんかいません。むしろ私は・・・。」
「・・・・・・・・・」とたんにアンジェリークの大きく見開かれた瞳から涙が零れ落ちてきた。

彼女の涙はいつも私の理性をかき乱す。ただでさえ頭の中が混乱している上に彼女の涙を見て私は完全に理性を失っていた。



あれこれ言おうとしていた言葉をすっとばして、私がとった行動は、泣いている彼女を引き寄せ、強く強く抱きしめることだった。
「嫌いになるわけないじゃないですか・・・。こんなに、こんなにあなたが好きなのに・・・。」ほとばしるように、想いがそのまま言葉になって出た。
驚いて体を引こうとする彼女を今度は力任せに引き寄せ、さらに固く抱きすくめる。腕の中で震えている小さな体がとにかく愛しかった。
「愛している。愛しているんです・・。」
ずっと心の奥底でだけ繰り返してきた言葉が堰を切ったように溢れ出した。
「愛しています・・。」耳元で繰り返し囁きながら、金色の柔らかな髪の毛をなで、指でからめた。小さな頭を少し仰向かせると抑えられない衝動のままに桜色の唇を吸った。 脳髄まで痺れるような陶酔が全身を駆け抜ける。もう何も考えられなかった。 頭も体も完全に理性の箍を外れていた。 貪るように何度も唇を味わった後、睫に溜まった涙を唇で吸い取って、更に髪に、頬に、耳たぶに、雪白のうなじの襟足のきわまで唇を這わせた。



どのくらいそうしていただろう---。
アンジェリークは---彼女はもう泣いてはいなかった。よほどびっくりしたのだろう。腕の中で茫然自失したように動かない。
今更ながら取り返しのつかないことをしてしまったと思う。今度こそ嫌われるどころではすまないだろう。

「アンジェリーク」
腕の中で呆けたようになっているアンジェリークに、私は恐る恐る声をかけた。
「はっ・・・はい。」脱力していた筈の彼女がいきなりがばっと身を起こしたので、小さなボートは思い切り傾いだ。
「あの・・・怒ってますか?」彼女と同じ質問を今度は私がした。
我ながら間抜けな質問だった。今更何を言ってるのか。
「はいっ・・。いっ・・いいえ、私っ、あの・・・あの、帰りますっ」彼女はすっと立ち上がってきびすを返した。
「あ、アンジェリーク。ここはボートの上・・」止めようとしたが時遅し、アンジェリークは思い切り湖に飛び込み、つられてボートもものの見事に引っくり返った。


砂漠地帯出身の私は当然ながら泳いだことがないが、知識として力を抜けば体は浮くということは知っていた。さっき彼女の涙を見ていとも簡単にパニックに陥った私は、こういうときに限って嫌になるほど冷静で、すぐに浮き上がると周囲を確認した。
ひっくり返った状態でぷかぷか浮いて入るボートの反対側でアンジェリークがバシャバシャと水しぶきをあげてもがいている。私はボートを伝って反対側に回り込むと、腕を伸ばしてアンジェリークの体を抱き寄せ、なんとか彼女の半身をひっくり返ったボートの上に押し上げた。
彼女は激しくむせ返るとしたたかに水を吐いた。


最悪と言えばこれ以下はないくらい最悪な状態になった―――。暴行まがいのことをしたあげく、危うく彼女を溺れ死にさせるところだった。私はもう観念した。彼女はもう口もきいてくれなくなるかもしれない。自業自得だ。今までになく投げやりな気持になっていた。

「げっ!ルヴァ様。たっ・・ターバン!!ターバン取れてます!」
ボートにつかまってぜいぜいあえいでいると、アンジェリークの素っ頓狂な声が聞こえた。
言われて見ると、頭からずり落ちたターバンがぷかぷかと湖面に浮かんで流れていこうとしている。
一番大切な人だけに本当の自分を見せる・・・そんなふるさとの慣わし。今となっては、それにどんな意味があるというのだろう。ターバンどころか思いっきり自分の本性をさらけ出してしまったではないか。彼女に嫌われたら、こんなもの後生大事にしたところで何の意味があるというのだろう。

「ああ、もういいんです。そんなの。どうだって・・。」
つい、柄にもなく捨て鉢な言葉を吐いてしまった。
アンジェリークはいきなりきっと言う表情になった。
「ダメです」と叫ぶといきなりボートから手を放してバシャバシャと盛大に水しぶきをあげて泳ぎだす。
さっき溺れそうになったばかりだと言うのに、なんと無鉄砲な・・・。
私が連れ戻そうとするよりも早く、彼女は流れていこうとするターバンをひっつかむとまた水しぶきを上げて戻ってきた。
ボートにたどり着くなり、はあはあと荒い息をつきながら、彼女はずぶ練れになったターバンを怒ったような顔で私の鼻先に突きつけた。
「どうでもよくなんかないですっ!とっても大事です!」叫ぶ声が震えて涙声になっている。
「私も、ルヴァ様が好きなんですっ。だっ、だからっ!他の人に見られる前にまいてください!」
思いがけない彼女の言葉に私の思考は一時停止した。
「アンジェリーク、あなた今なんて」
「ダメです。いやです。他の人に絶対見せないで下さい。」
アンジェリークは怒った顔のまま、またしても泣き出してしまった。

私はアンジェリークに「早くしてください〜」と泣きながらせかされるままに、ずぶぬれでぐずぐずになったターバンを絞りもせずに慌ててあたまに巻きつけた。
ただでさえ全身ずぶ濡れのところに水を含んだターバンを頭に巻いたので、だらだらと滴ってくる水に目も明けられない。ずいぶん情けない格好をしていたのだろう、さっきまでべそをかいていたアンジェリークがくすりと笑った。
私は彼女が笑顔を見せてくれたことで、一気に救われた気持になった。

今度こそ、ちゃんと言おう、自分の本当の気持を。


「すみませんでした。アンジェリーク。私を許してくれますか?」
「はい。・・・あ、でもひとつお願いがあります。」そう言った後で彼女はちょっと頬を染めて目を伏せた。
「もう一回、あの・・・してください。さっきのは急でよく分からなかったんです。」
・・・のところはとても小さな声だったのでよく聞こえなかったが、私は好きなように解釈することにした。


そして私達はぷかぷか浮かぶひっくり返ったボート越しに、ゆっくりキスを交わした。




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