7.姫君

Xiangyun


あの人が去った後も、私はずっとあの人がかけていた椅子の背にもたれたままでいた。
あの人が口付けたカップに私の唇の紅を重ねてみる。
微かにインクの香りが残っているような気がした。
あの人の手は、とても、暖かかった。
もう少しだったのに・・・惜しいことをしたわ。


緑の衣の異国の賢者―――あなたはとても魅力的だわ。
あなたはとても上手に隠しているけれど、穏やかな物腰の中にとてつもなく強くてしぶといものを秘めている。
初めて会った時から私にはすぐに分かったの。あなたの静かな湖のような瞳の奥には熾火のような炎が燃えている。天を焦がすような猛火ではないけれど、とても熱い、そして消えることのない炎が。
優しさと素っ気無さと紙一重のようなあの人の語り口を頭の中で反芻しながら、私は陶然とした気分に浸っていた。節度ある優しさと節度ある冷たさ。・・・・用心深いあなたの仮面を崩してみたい。めちゃくちゃにしてやりたいの。


「失敗か・・・・?」
何時の間にか兄が入ってきた。ノックもしないで、無粋な人ね。甘い想いに浸っていたのをぶち壊されて私は少し腹立たしくなった。
「まだ始まったばかりですわ。」
「お前はあの赤毛の方が好みかと思ったが・・・・やはりあちらは手ごわいか?」
兄の言葉を私はもう聞いてはいなかった。兄は何も分かっていない。
兄はあの人のおとなしそうな外見しか見ていない。私に言わせれば彼は炎の守護聖よりはるかにしたたかな食わせ物だ。だからこそ、私は僅かな間にすっかり心を奪われてしまったのだ。
「どちらも一筋縄ではいかなさそうですわ。でも・・・・鍵を握るのは、あの金髪の補佐官・・・。」


「来い」
いきなり兄が強引に私の腕を掴んだ。私は痛みに顔をしかめた。
「今日はいや・・・。」まだ手のひらにはあの人のぬくもりが残っていた。
「来い!」兄は更に声を荒げた。
乱暴なだけの男。こんな時は本当に嫌になる。
腕をつかまれた刹那、私は術を使った。欲望に頭がはちきれそうになっている兄はいとも簡単に術にかかった。私は兄の姿になっていた。兄は逆に金縛りにあったように身動きが取れなくなっている。

相手の体と心を乗っ取る―――。これはいつのまにか私の身に備わった不思議な能力の一つだった。
十三歳になったばかりの頃、私は自分の中に宿った不思議な力に気が付いた。その頃から私は他人の心を覗き込み、コントロールし、その姿を写し取ることができた。
もちろん、誰でもいつでもというわけにはいかない。術がかけられるのは相手が怒りや欲望、絶望に我を忘れている時に限られた。

「おとなしくしてくださいな。」私は兄の声でそう言った。
「一緒に聖地を乗っ取るんでしょう・・・?これからが本番なんですから・・・・。」
私が術を解くと、兄はものすごい目で私を睨みつけ、額に青筋を浮かべたまま出て行った。
冷静さに欠ける兄はパートナーとしては多少手の焼けるところはあったが、その分御しやすいといえば御し易かった。
私は再び緑の衣の異国の賢者に想いをはせゆっくりと目を閉じた。

昔何かの物語で読んだことがある。愛しい人の口付けを得るために、その首を切り落とし銀の盆に載せた王女の話。私もあなたに口付けしたいわ。それにはやっぱり、あなたの首を銀のお盆に載せないと駄目なのかしら。



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