17.逃走 Oscar 俺は何度も宮殿の方角を振り返るアンジェリークをせきたてながら、どうにかエアポートに程近い山間の平地に辿り着いた。 俺のわき腹から染み出した血が衣を染めているのにアンジェが気が付いた。 「オスカー様。ここで少し休みましょう?」 アンジェが俺の腕を捕らえて心配そうにそう言った。 道を急ぎたい気はしたが、エアポートに辿り着くためにはどのみち途中で一夜を明かさねばならない。長い道のりを休み無しで歩いてきて、先ほどからアンジェリークの足元がふらついてきているのも気が付いていた。 俺はアンジェに同意して、草地に腰をおろした。 俺を待たせて、アンジェは近くの澤から水を汲んできた。皮袋の水を交互に飲み干すと、二人ともようやく人心地がついた気がした。 「聖地に交信できるかやってみます。」アンジェリークは立ち上がると木立の方へと向かっていった。 女王候補であったアンジェリークは僅かだがサクリアを操作し、陛下と交信することが出来る。聖地ではめったに失敗することはないと言っていたが、こんなに遠距離で試みるのは初めてだろう。俺は彼女の精神統一を邪魔しないように息をひそめた。 しばらくして満面に笑顔を浮かべたアンジェリークが小走りに戻ってきた。 「オスカー様。通じました。ちょっとなんですけど。・・・迎えをよこしてくださるとおっしゃってました」 「そうか・・・。」俺は大きく安堵の息をついた。後はルヴァさえうまく抜け出してこれれば、このいまいましい地を離れることが出来る。 俺はふと、アンジェがまじまじと俺の傷口を見詰めているのに気がついた。 ふいにアンジェは右手を伸ばすと、俺のわき腹の近くにかざした。 そのままアンジェはわずかに眉を寄せて手のひらに気を集中しているように見えた。 俺にはアンジェが何をしようとしているのかが分かった。サクリアを使って俺の傷を治そうと試みているのだろう。しかし、たった今の交信で全精力を使い果たしたのか、アンジェの白い指先にも掌にもなんの変化も見られなかった。 「ごめんなさい・・・。こんな時に、私全然役に立ちませんね。」アンジェが悔しそうに唇をかんだ。 「オスカー様に助けてもらって、ルヴァにかばってもらって・・・・、お荷物ですね、私。」 彼女はたった今俺達全員を助けるために疲れた体に鞭打って遠距離交信を試みたことはすっかり忘れているようだった。俺は苦笑して言った。 「じゃあ、笑ってくれ」 「えっ?」 「君がちょっと笑顔を見せてくれれば、痛みなんか吹っ飛ぶんだがな・・」 アンジェは俺がからかったと思ったらしい、ちょっとしかつめらしい顔を作ろうとしてみせたが、すぐに失敗してくすくすと笑い出してしまった。 「もう・・・。オスカー様。こんな時によくそんな冗談言えますね。」 冗談なんかじゃないさ。彼女が笑ったとたん俺は本気で痛みが引くのを感じていた。アンジェリーク。君さえ笑っていてくれたら・・。 「ところで、最近ルヴァとはうまくいってるのか?」 俺がわざわざルヴァの名前を引き合いに出したのは、ひとつには自分にアンジェリークは他人のものだということを言い聞かせるためであり、ひとつにはルヴァの名前を出せば少しはアンジェの気持ちも引き立つだろうと思ったからだった。俺はさっきから急にアンジェがルヴァの名を呼び捨てにするようになったことに気が付いていた。 「うまくいってるかって・・・・・」いきなり恋人の名前を引き合いに出されて、アンジェリークの頬が桜色に染まった。 「分かりません」 「分からないって事はないだろう」 「分かりません。最近・・・。あの人が本当に私のこと好きなのかどうかも分からなくなってきちゃいました」 ・・・・これはおだやかじゃない。 「そうかな。ルヴァは分かりやすいヤツだし、傍目で見ていても君にベタ惚れしてるのは一目瞭然と思うがなあ。」 「じゃあきっと、私が子供っぽくて、私に魅力が足りないんです・・。」 そんなばかなことがあるもんか・・・・と、大声で言ってやりたかったが、それは俺が言うべきセリフじゃない。俺はぐっとこらえてアンジェの次の言葉を待った。 「でも、オスカー様なら、あの人の気持がわかるかもしれませんね!!」 それまでもじもじと言いにくそうにしていたアンジェがいきなり俺の方にぐっと身を乗り出してきた。 「ま、まあ・・・ことによってはな」 「実は・・・・あの・・・・その・・・・・。・・・・・・・・・してくれないんです」 「ん?」 それからアンジェがポツポツと語りだしたところによると、結婚を待ってくれと言ってから急にルヴァが自分に興味を失った気がする。もはや結婚話を口に出さなくなったことはもちろん。デートにも誘われない、執務室でも引き止められない、仕事の話しかしない、もちろんキスもしない、それどころか手も握らない。何を考えているのか全く分からないのだという。 俺はアンジェの他愛ない愚痴を聞きながら、二人には申し訳ないが、腹をかかえて笑い出してしまった。 アンジェは大きな勘違いをしている。 同病相憐れむと言うヤツだ。俺にはすぐ分かった。大方ルヴァはしつこく結婚話を持ち出して、彼女に嫌われるのが怖いのだろう。手も握れないと言うのは・・・・俺もそうだったからなんとなくルヴァの気持がわかる。俺も何百人にも使用済みのくどき文句がアンジェの前では舌に絡まって一言も出てこなかった。ルヴァも俺同様に彼女に惚れてるくせに手も足も出せずにいるわけだ。 「ひどい。笑うなんて・・・。」アンジェリークは不満げに小さく口を尖らせた。 「すまん・・・いや・・・・ちょっとばかり、これは・・・ルヴァが気の毒だと思ってな」 「オスカー様も私が悪いと思っていらっしゃるんですね」 「いや。アンジェは悪くない。もちろんけしからんのはルヴァの方だ。大体こんな可愛い婚約者がいて毎日プロポーズしたってバチは当たらないだろうに、女性から切り出させようなんて男の風上にも置けないヤツだ。」 「もういいです。」アンジェリークは拗ねたように言ったが。本気で怒っていないことは顔を見ればすぐに分かった。 「痛っ・・・」笑いすぎたせいか傷口に引きつるような痛みが走った。 「そんなに笑うからですよ。」アンジェはわざとつっけんどんに言うと、断りもなしに俺のシャツを捲り上げて傷口の包帯を解き始めた。 その姿に異性を意識した様子は微塵もない。患者と看護婦ぐらいにしか思ってないんだろう。 だけど俺は違った。彼女の手が俺の体の上を行ったり来たりするたびに、体中を電流が駆け抜けるようだった。 クスリを塗る彼女の手は暖かく、その手に触れられている間、俺は本当に傷の痛みを忘れていた。替わりに心臓の辺が激しく血を流して疼いている。 今、少し手を伸ばせば触れられる。その髪に、頬に、唇に・・・だけど、それはできない。 「さあ、少しおとなしくしていてくださいね」 手当てを終えたアンジェリークが、看護婦のようなちょっと年上ぶった口調で言った。 長い拷問が終わった安堵と、そしてそれを惜しむ気持ちの間で俺は大きく息を吐いた。 俺はわざと冗談めかしていった。 「さっきの話だが・・・、一つだけいえることがあるぜ」 「・・・・・」アンジェが小首をかしげた。 「ルヴァは君に心底惚れてる。これは事実だ。俺が保障する。あいつは君がそうしろといったら火の中でも水の中でも飛び込むだろう。」 「・・・・・それは分かってるんですけど・・・・。」アンジェはまた嬉しそうに頬を染めた。ぬけぬけとのろけられて忌々しく思う反面、俺はかえって少し心が落ち着いてきた。 「それでだ。君から結婚したいと言えば、ヤツはきっと天にも上る気持であっという間に手はずを整えるだろう。・・・・だが、それはどうかと思うな。」 「じゃあ、どうしたらいいんですか?」アンジェリークは真剣だ。こういうところは彼女は非常に屈折がなく、分かりやすい。 「やっぱりルヴァから切り出させるべきだろう。最初が肝心だ。アンジェも今後、なにもかも自分がリードしないとならないなんてことになるのはご免だろう?」 アンジェリークは思い切り「うんうん」とうなづいた。 「そうだな、さしあたって、しばらく何も言わずにヤツをやきもきさせてやることだな」 アンジェはまた大きくうなづいた。 「たまに俺とデートして見せたりすると、ヤツも多少は焦るかも知れんな・・・・・やってみるか?」 アンジェはちょっと小首を傾げて考える風だったが、やがて「お願いします」と、ぺこりと頭を下げた。 ちょっとばかりルヴァにすまない気もするが・・・・知るもんか。 何と言ってもヤツはアンジェを手に入れた。ここで自分がささやかな意趣ばらしをしたところでバチは当たるまい。 その晩、俺とアンジェは危険を避けるため回り道をした山間でかっこうな洞穴を見つけ、そこで野宿することになった。 薪に火がつくと、アンジェはよほど疲れていたのか、すぐに目を閉じてかすかな寝息を立て始めた。 俺は―――眠れなかった。 この安らかな寝顔は今だけは俺だけのものだ。いつまでも見つめていたかった。 ふいにアンジェリークが小さくくしゃみをした。薄手の生地のドレスを着た彼女は火の前でも寒そうに見えた。 俺は彼女にマントをかけてやろうとして、火の反対側、彼女の脇に近づいた。 よほど寒いのか、アンジェは小さく震えていた。俺は彼女の体にマントを覆いかけると・・・・そのままマントの上から彼女の華奢な体を抱きしめた。 心臓が規則正しい動きを止めて激しく脈打っていた。 (暖めているだけだ・・・・彼女が寒そうにしているから・・・。) 自分すら騙せない子供だましの言い訳を胸の中で呟いた。 今、自分の腕の中にアンジェがいる。それは罪なことをしているという感覚とあいまって甘い毒となって俺の脳髄を痺れさせた。 まだ小刻みに震えている体を思い切り強く抱きしめる。 どうして、こうなってしまったんだろう。俺はとめどもなく考えた。 もし・・・。もしもこの天使が俺のものだったら。俺は間違いなく命よりも大事にする。決して寂しい思いも不安な思いもさせない。 毎日何百回でも抱きしめて口付けて、全部自分のものにして、何もかも満足させてやる。お前の幸せのために、俺は命だってかけるだろう。 あいつはなんだ。いつもぐだぐだと悩んでちっとも男らしくないじゃないか。挙句の果てにアンジェをこんな不安な思いにさせたままキスもしない、手も握らないだと、いったい何を考えているんだ、あいつは。 俺の方が愛している。俺の方が守ってやれる。俺の方が幸せにしてやれる。 ふいに、アンジェはむずかるように二三度首を振ると、両手を伸ばして俺を抱き返してきた。 俺の体にまた痺れるような電流が駆け抜けた。 「んん・・・・ルヴァ・・。」 甘い笑顔でアンジェが口にしたその名を聞いて、俺はいきなり頭から冷や水をあびせられたような気がした。 俺に抱かれながらあいつのことを思っているのか俺の腕の中であいつの夢を見ているのか。 「いやだ。」 俺は思わずアンジェの華奢な体を力任せに抱きしめた。 「オスカー様?」驚いたアンジェが目を覚ます。 俺は腕の中のアンジェを激しく揺さぶった。 「教えてくれ、どうしてあいつなんだ?どうして俺じゃないんだ?俺のどこがあいつに劣っているって言うんだ!」 「止めてください」アンジェが俺の体を押しのけようと激しく身悶えるのを、俺は腕力で押さえつけた。 「いやだ。俺の方が愛している。」 アンジェが大きく目を見開いて俺を見つめている。 俺は腕に力を込めると、アンジェの唇に静かに唇を落とした。 激しく首を振って逃れようとするアンジェの唇を俺は執拗に追いまわした。ついにそれを捉えたとき、俺は分けのわからない征服感に酔いしれた。 ふいにシャッという金属の音がして腰の辺りが軽くなった。 俺は驚いて飛びのいた。 そこではアンジェが、俺の腰から抜き取った剣を危なっかしげに構えて立っていた。 「謝ってください。もう二度としないって、この剣に誓ってください」 アンジェの怒った顔を見るのは初めてかもしれない。それが妙に美しくて俺はまた魂を奪われた。なぜだか自分でもわからない。相手はこんなに全身で自分を拒否しようとしているというのに・・・。 「分からないんですか?もう仲間でも・・・友達でもいられなくなっちゃうんですよ?」アンジェは懇願するように俺を見た。 「友達なんかじゃない!」俺は噛み付くように叫んだ。 アンジェはこれ以上はないくらい大きく目を見開いて、そこからは大粒の涙が溢れ出した。 「ばかぁ!」叫ぶとアンジェは剣を地面にたたきつけ、身を翻すと闇の中を駆け出していった。 しばらく俺は剣を拾うのも忘れて茫然と立ち尽くしていた。 自分が何をしたのか、ここで何が起こったのか・・・まるで悪い夢を見ていたような気がする。 気持ちの乱れが治まるにつれ、自分がどんなにとんでもないことをしでかしたかが分かってきた。アンジェリーク。・・・・とにかくアンジェリークを探さねばならない。この敵地の真中で彼女を一人きりにするわけには行かない。 俺は剣をさやに収めると、暗闇の中、無我夢中で表に飛び出した。 |