19.囚人

Angelique


オスカー様と分かれた後、私は一人真っ暗な道をめくらめっぽうに歩きつづけた。 風が吹くたびに骨まで染みとおるように寒かったし、何が出てくるか分からない闇がとにかく怖かった。

オスカー様のことは責められない。私が無神経すぎた。もうとっくに終わったことだと、相手も忘れていると思っていた。オスカー様はそんなこと気振りにも出さなかったし、こちらも何の遠慮もなく平気で甘えてしまっていた。

とにかくルヴァに会いたかった。
あの暖かい懐に抱かれて何もかも忘れて眠りたかった。でも、そのルヴァはどこにいるのか見当もつかない。もしやと思って精神を凝らして見たけれども、ルヴァの気配のかけらさえも見出すことは出来なかった。
「夜が明けたら城を目指そう」私は心に決めていた。
危険なのは分かっている。だけど城から抜け出してくるルヴァと一刻も早く落ち合うためには城を目指すしかない。もし会えなかったら、ルヴァは逃亡に失敗して城に閉じ込められていることになる。もしそうだとしたら、何とかして助け出さねばならない。


靴のヒールが折れて、私はいきなり泥の中にへたばるようにして倒れこんだ。泣きたいのをこらえて靴を脱ぎ捨てて道端に放り捨てた。
「ルヴァ。・・・・・どこにいるの・・・。」
疲労で足が震える。もう立てなかった。
私はそのまま、泥の中にうずくまるようにして気を失ってしまった。


私は夢を見ていた―――。
女王候補時代のこと。ルヴァが森の湖のボートの上で私に告白した時のこと。結婚を断ったこと。泊まらないかと言われて逃げて帰ったこと―――。面白いくらいにつぎつぎといろんなことが克明に思い出された。
額が何だか重くて、まるで誰かの冷たい手を押し付けられているようで、夢を見るのと並行してそんな奇妙な感覚がずっと続いていた。
ふっとそれが途切れて・・・・・気が付くと、私は、ベッドの上にいた。

(ここは・・・・?)

ベッドの中で半身を起こしてあちこちを見回すと、少し離れたところにシャンユンが、物憂げな表情で立っていた。
宮殿に戻ってきてしまったんだ。しかも彼らに見つかってしまった。
背中に冷たい汗が流れた。


「お帰りなさい。・・・・長いお散歩でしたのね。」
シャンユンは私を見て少し皮肉げな微笑を浮かべて見せた。
「ルヴァは・・・?」私は一番聞きたかった質問を性急に彼女にぶつけた。
「彼は・・・まだ寝てるわ。」
シャンユンは少し億劫そうに言うと口の端に勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
この日のシャンユンはまるで部屋着のようなガウンを無造作にひっかけただけといういでたちだった。私はなんだかとても不愉快な・・・・とてもいやな気持ちになった。
「かわいそうに・・・・あなたはまだあの方に許していなかったそうね。」
シャンユンの一言は私の心の奥底の不安をえぐるものだった。私は頭にカァッと血が上った。
「あなたがどうしてそんなこと・・・」
「ルヴァが全部教えてくれたわ。アンジェは自分のことを全然大事にしてくれない。仕事にかこつけてるけど、きっと他に好きな人が出来たに違いない。それならそれで言ってくれればいいのに・・・。って」
「嘘。そんなの嘘に決まってるわ。」もっと激しく反駁してやりたいのに、怒りと衝撃で言葉がでなかった。
「顔に似合わず冷たい人なのね、あなたって・・・・でも、安心して。あなたが冷たいぶん、私がお慰めしてさしあげてますから・・・・」
シャンユンはゆっくりと私のほうに向き直った。
「ほら、見せて差し上げますわ。」彼女が襟元をくつろげると、雪のようなうなじに紅い花びらのような印が残っているのがあからさまになった。
「もっと別なところにもありますけど、ご覧になりたい?」
「結構です!」クスクス笑いを続けるシャンユンに私はたたきつけるように言った。
私はもう自分で制御できないほど怒り狂っていた。
「信じていらっしゃらないみたいね・・・・認めたくないのは分かりますけど・・・。」シャンユンがわざとらしく眉をひそめて見せた。
「彼に会わせなさいよ。本当にあなたの言うとおりだったら、会えば分かる話でしょ。」私も負けてはいなかった。
「そうね。・・・・でもルヴァはあなたにはもう会いたくないって言ってるわよ・・・。」

シャンユンのこの一言で私は彼女が嘘をついていることを確信した。
ルヴァはそんな人じゃない。あの人が私への愛情を失って、誰か他の人を愛するようになる・・・・それは絶対に有り得ないこととは言い切れないかも知れないけれども、もしそんなことになったら、あの人は絶対直接そういってくれるはずだ。
あの人にとってそれがどんなにつらいことであっても、私を騙したままにしておくような人じゃない。あの人はそんな器用な人じゃない。

「分かりました。じゃ、いいです。私もあなたの言うこと信じません。」
シャンユンと私は無言でしばらく睨み合っていた。嫉妬だけじゃない、この女性には、何か私の神経を逆なでするものがあった。
「森の湖のボートで初めてキスしたんでしょ?」
シャンユンは私の方を探るように見ながら言った。
「その時は、あなたがこんなに気が強くてわがままな女だとは思ってなかったんですって。」
森の湖でのできごと――――あれは、本当に私とルヴァ以外誰も知らないはずだ。
シャンユンが私を動揺させようとして嘘を並べ立てているのは明らかだ。だとすると・・・・。別な不安が私を襲った。私は思わずシャンユンにつかみかかった。
「ルヴァに何をしたの。まさかまたクスリを飲ませて・・・。」
シャンユンは私を振りほどくと、大げさに驚いた顔をして飛びのいた。
「まあ、あなたったら・・・・本当にどうしても信じてくれないのね?」シャンユンは肩をすくめてため息をついて見せた。「あなたには、男ってものが全然分かってないみたいね。」
「あなただってルヴァのこと、何も分かってないじゃない。」

シャンユンは今度こそ本当に驚いたようで目を大きく見開いて私をまじまじと見つめ・・・・そして声を上げて笑い出した。
「本当にもう・・・・あなたったら・・・。楽しい人ね。ああ、ルヴァがあなたを好きになったのが分かる気がするわ。分かったわ。今日は私の負け。でも、私が言ったことはすぐに現実になるのよ。」シャンユンは私の顔色を確かめるように見ながらゆっくり言った。
「そうね。いろいろやり方はあるけど・・・・あなたが言ったように、クスリを飲ませて私をあなただと思わせてもいいし・・・。」
「卑怯者!」私は思わずこぶしを握って叫んだ。
シャンユンはまた楽しそうに声を上げて笑った。
「まあ、元気がいいのね。でも、いつまでその元気が続くかしら。」
「どういう意味?」私はシャンユンをにらみつけた。
「私の兄がね。すっかりあなたの美しさの虜になってしまったみたいで、どうしてもあなたのことが欲しいって言うの。・・・ああ、ご心配なさらないで、心からなんて言わないから。体だけでいいのよ。」

私はシャンユンがあたりまえのように口にした言葉に愕然とした。・・・冗談じゃない。ふいに自分が敵地にいることがまざまざと思い出された。全身を緊張が走る。
私の反応を見てシャンユンが微笑んだ。
「いやなの?・・・どうして?兄は確かに頭の回転は速いほうじゃないけど、体はとてもいいのよ。」
「狂ってる・・・・あなたたち狂ってるわ。」
「そうかしら。・・・・あなたもいつまで正気でいられるかしらねえ。」


その時不意に乱暴にドアを叩く音がした。
「あら・・・。きっと兄よ。話が終わるまで待っててって言ったのに。ふふ・・・・がまんできなくなってしまったみたいね。素敵なアンジェ。あなたって本当に罪つくりね。」

返事も待たず、ウェイがぬっと押し入ってきた。私を見ると、口元だけでにやりと笑った。私は全身に鳥肌が立つのを感じた。
「兄様。アンジェがね。どうしても賢者様のことが忘れられないのですって。・・・このままじゃ私、彼女に術がかけられないわ。兄様のお力で彼女に賢者様のことを忘れさせてあげてくださいな。」

ウェイがじっとこちらを見つめている。獲物を見つめる獣のようなまなざしに、私は縮み上がった。
「いや・・・・やめて・・・・。」
私が後ずさると、ウェイもわざとゆっくりと一歩踏み出した。
「来ないで・・・。」
更に一歩下がろうとしたその瞬間。
後頭部を押さえつけられ、いきなり唇に生ぬるい感触が襲い掛かった。吐き気が胸元まで突き上げる。
押し付けられた体を突き放そうと両手で必死に抗うが、ウェイの体はびくともしない。
こぶしを固めてめくらめっぽう覆い被さってくる体を打った。
瞬間、ウェイの体が離れたかと思うと、私の頬にものすごい勢いでウェイの平手打ちが襲ってきた。
あまりの衝撃に体が後ろの壁まで弾き飛ばされた。唇にぬるりとした血が流れ、脳天がくらくらする。
めまいを押さえているところをむりやりひきずり起こされ、壁に押し付けられる。
再び唇がおそってきた。無遠慮な手が服の上から乳房をなでまわす。体をよじって避けようとするのだが動けない。涙が滲み出た。
「いや・・・。」声を上げた瞬間に、ねっとりとした舌が唇を割って入り込んできた。
その獣じみた感覚に私は全身の毛が逆立つような激しい嫌悪を感じた。
吐き気をこらえて、口内で無遠慮に動き回る舌に思い切り歯を立てた。
同時に渾身の力をこめてウェイの体を突きのける。
「ぐぉおおおー。」獣じみた声を上げて、ウェイが飛びのく。唇のはじからだらだらと血が流れている。
ウェイはものすごい目で私をねめつけると、再び狂ったように襲い掛かってきた。
あっという間に右の袖を肩口から引きちぎられた。
今度はこぶしで、腹部を思い切り殴られた。今まで経験したことがないほどの強烈な痛みとともに、私の体ははね飛んで部屋の隅のカップボードに頭から斜めにぶち当たった。
ガラスが割れ、頭の上からふりそそぐ・・・。どこかが切れたらしく、床に血が飛び、頭ががんがんと痛んだ。
ウェイが大またに歩み寄ってくる。


「来ないで・・・」
逃げたいのに体が動かない。ウェイは酷薄な笑みを浮かべてゆっくりと歩み寄ってくる。
手が伸びて、肩に触れそうになる。


―――――嫌。ぜったい嫌。助けて、ルヴァ――――――――――


パァアン・・・と、何かがはじける音がした。
一瞬あたりが強い光で包まれ、私の頬に、肩にやわらかいものが触れた。
私の周囲を淡いオレンジ色の球体が包み、私の両肩からは白い大きな翼がはえていた。
ウェイはひざをついて肩を押さえている。
その腕からは血が滴っていた。
「このっ・・・・」ウェイが刀を抜いた。
大きく振りかぶり、一瞬風を切る音が聞こえ、私は反射的に固く目をつぶった。
パキィ―――ン。いやな金属音が響き、こわごわと目を開けた私の視界に折れた剣の切っ先が飛び込んできた。

ウェイは蒼白な顔でこちらをにらんでいる。
私も負けじとにらみ返した。
どうやらこの球体の中には彼は入れないらしい。


「素敵だわ・・・」シャンユンが手を叩いて感歎の声をあげた。
ウェイがむっとした様子で横目で妹をねめつける。
「素敵じゃありませんか。白い翼は女王のサクリアの具現でしょう?この娘は、私達の予想を越えて、女王にも匹敵するサクリアを持っているということじゃあありませんか」
ウェイは肩で息をつきながらそっぽを向いた。
「大丈夫、絶対お兄様のものになりますわ。疲れさせて、反抗する力がなくなったところで、少しずつ好きなようにしてしまえばいいじゃありませんか?慣れればなんでもお兄様の言うことを聞くようになりますわ。」
シャンユンは私を見るとにっこりと微笑み、ゆっくり一語一語区切るように言った。
「どうせもうどこにも逃げられませんもの」
私はこのひと言にぞっとした。


「鉛の鍵をかけて。食事は与えなくていいわ」シャンユンは振り返って衛兵に命じると、兄の手を取って出て行った。

危険が去ると同時にオレンジ色の球体がしぼんで消えた。
彼女の言うとおりだ。サクリアを放出したことで全身をぐったりとした疲労感が包んでいた。こんなこと長くは持たない。
私は何の効果もないと知りながらも急いで内側から部屋に鍵をかけた。部屋の中央にすえつけられたどっしりとしたテーブルを汗だくになってドアの前まで引きずると、全身の骨がばらばらになったように力が抜け、体中が痛んだ。

カップボードをさぐり、なんだか分からないアルコールのビンを探し当てると、何度も口を漱いだ。強いアルコールがただでさえ疼くようだった頭痛をよりいっそう激しくした。

「ルヴァ・・・・・。」愛しい人の名を呼ぶ。
涙がどっと溢れてきた。
「ルヴァ・・・・助けて・・・・ルヴァ・・・。」
怖い。体が激しく震えた。私は強く唇をかんで、そのまま泣き崩れてしまいそうになる自分を叱りつけた。泣いてる場合じゃない。この城のどこかにルヴァが捉えられているのなら、何とか探し出して助け出さねばならない。


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