17.天使と悪魔
Angelique
目を開けると、あたりは一瞬もやがかかったようにぼうっとかすんで見えた。
頭が重苦しく疼くように痛い・・・・。
そうだった。徐々に記憶が蘇ってきた。
ゼフェル様と分かれてすぐに、大勢の黒服の男に取り囲まれて、その中の一人が後ろから私を羽交い絞めにして、何かで口を塞がれたんだ。その後は記憶があやふやだった。
男の肩の上に担がれて、何か冷たい、暗いところを移動した気がする。
ぼうっとしながら、漠然とした不安と同時に、なんだか妙な予感を感じていた。一秒一秒、あの人に・・・ルヴァのいるところに近づいているという予感・・・・。
目の前のもやが晴れると同時に、私は自分がかび臭い薄暗い部屋の中にいるのに気がついた。
私は石でできた固い長椅子のようなものの上に横たわっていて、誰か、黒尽くめの服を着た痩せた男が、私の上にかがみこむようにして、私の顔を覗き込んでいた。
私はびっくりして、一瞬で跳ね起きた。
瞬間、頭がくらくらして、私は倒れないように両手で体を支えた。
「お目覚めですか?・・・女王補佐官殿。」
「あなたは・・・?」
私は自分の顔を覗き込んでいるその男の目をもう一度見返した。
暗い・・・・・凍りつくような視線だった。私は思わず背筋が寒くなるのを感じた。
「申し遅れました。ヘイロンと申します。」
男は薄ら笑いを浮かべていた。
憎しみに満ちた笑い・・・・私には分かった。ルヴァを危険な目にあわせているのはこの人だ。そして私はこの人に捕らえられてしまった。
「薬を使って私を捕らえて・・・・どうするつもりなんですか?」
私ははっきりとヘイロンの暗い瞳を見つめ返した。
「ああ・・・状況はもうすっかり飲み込んでいらっしゃるようですね。説明の手間が省けて助かります。あなたをどうするか、ですか?・・・・さあ、それは、あなたのご主人の出方次第ですね。」
「ルヴァはどこにいるんですか?」
私は一番聞きたかったことをストレートに聞いた。
ヘイロンは薄く笑って私に答えた。
「残念ですね。もう出発されてしまいましたよ。あなたの手の届かないところにね。」
ヘイロンが私に向かって掲げてみせたものを見て、私は息をのんだ。それは・・・その砂色の布は、ルヴァが出かけるときに身に付けていたターバンだった。
ヘイロンは、立ち上がると手の中のリモコンのスイッチを押し、同時に、石造りの台の上にそらぞらしく載せられたモニターがぼうっと点灯した。
真っ暗なモニターには、かすかに緑色の小さな点と、それに続く細い軌跡のような線が点滅しながら映し出されていた。緑色のラインはモニターの下部から始まって、左右上下に不規則な線を描きながらモニターの中央あたりまで延びて、そこで止まっていた。
「 しかしご主人はたいしたものですな。地下の迷宮に入って二日、方向も時間感覚も失っていない。これまでに投入した連中が最長二日でトラップにはまるか、発狂して動けなくなっていることを考えると、実に優秀でいらっしゃる。」
ヘイロンの断片的な言葉からも事態は十分に理解できた。ルヴァはこの遺跡の中の地下迷宮とやらにいる。迷路の中をさまよっているのだ。
「ルヴァを返して下さい!」
私は思わず叫んだ。
「運がよければ戻ってくるかも知れません。私もそう願ってます。・・・・しかし残念ながら、あなたの元には戻りませんよ。永久に・・・。」
「どういうことですか?」
私は思わず、目の前で酷薄な笑みを浮かべているこの男をにらみつけた。
「冷静に考えてご覧なさい。仮にあなたのご主人がつつがなく戻られたとしても、私たちが黙って彼を生かしておくと思いますか?あんなに頭のいい人を、私達の秘密を握らせたまま生かしておく訳が無いでしょう?あきらめなさい。お気の毒ですが、彼はここで終わりです。」
ヘイロンの言葉に私は一気に緊張した。この人はルヴァを殺そうとしている・・・・。
「あなたは別ですよ。あなたは無力だ。聖地にお返しすることはできませんが、ご身分を尊重して、あまりむごいことはさせないつもりですよ。どこか辺境の国の後宮にでも入れば、聖地とまではいかなくてもそこそこ楽しい人生を送れると思いますよ。」
ヘイロンの長話を私はほとんど聞く気になれなかった。ルヴァの身に危険が迫っていた。今現在危険の中にいて、行く先にも、戻ってきても、危険が待ち受けているのだ。
「ルヴァは、遺跡の・・・迷路の中にいるんですね?」
「聞いてどうするんですか?」
「私もそこに行きます。・・・行かせて下さい。」
ルヴァの傍に行かなきゃ。咄嗟にそう思った。行ってどうするかは二の次だった。
ヘイロンは微かに眉をひそめた。
「ちゃんと分かって言ってらっしゃるんですか?ご主人には遺跡のことは教えていただかなかったんですか?地下は暗くて怖いところですよ。一度入ったら誰も出て来られない迷路ですよ。いろんな危ない仕掛けもいっぱいあるんですよ。」
「行かせてください。・・・行かなきゃならないんです!」
私は叫ぶと長椅子からよろめきながらすべりおりた。
ヘイロンが思い切り石の台を叩いた。信じられないことに、頑丈そうな石でできたテーブルが、真ん中で真っ二つに割れて崩れ落ちた。
ヘイロンは私をじろりと睨むと、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「いいかげんになさい。感傷的になるのはお止めなさい。私は女に興味はないが、あなたは見た目はいい。素直にしていれば高く売れる。ちゃんと言うことを聞けば売り先も考慮してあげましょう。そうでなければ世の中には怖いところがいくらでもあるんですよ。」
ヘイロンの腕が伸びて私の腕を捕らえた。乱暴に引き寄せられると、髪をつかまれて無理やり顔を上げさせられた。
「笑いなさい。高く買ってもらえるように極上の笑顔を浮かべてごらんなさい。」
脅されているということは分かったけど、相手が威嚇しようとすればするほど、逆に恐怖は消えていった。
こんなの本当の強さじゃない。本当に自信があれば、こんなことしない。
このとき私は初めてヘイロンとはっきり目が合った。
ルヴァと同じ深いブルー・グレイの瞳。だけど、その瞳が映すものは全然違った。
ルヴァの瞳はもっと吸い込まれそうなくらい深くて、目に映るもの全てを穏やかに暖かく受け入れてくれる。この人の目は、映るものすべてを入り口で否定していた。冷たく、寂しい瞳。力ずくで手に入れたものしか信じない目。
私は一瞬で確信してしまった。
「ルヴァはぜったい・・・・あなたになんか負けない。」
目をあわせたまま、私ははっきりと言った。
「ほう」
「帰って来るわ。そんなの、決まってるじゃない」
「で・・・その根拠は?」
「ルヴァは・・・ルヴァはものすごく我慢強いんだから。砂漠にだって迷路にだって、絶対負けないもの。絶対戻ってくるわ。」
ヘイロンは私の腕を掴んだまま、のどの奥で引きつったような声を上げて笑い出した。
「何が可笑しいの?」
「失礼・・・私は常日頃から世の中に『忍耐』ほど滑稽な言葉はないと思っているのでね・・・。」
「どうして?世の中で一番すごいことでしょ?・・・・誰にでもできることじゃないんだから。あなたに分かる?ルヴァはね、自分が誰かをちょっとでも傷つけることは少しも我慢できないくせに、自分の身に降りかかってくることなら、どんなことだって我慢できるのよ。絶対逃げないんだから。あなたみたいな弱虫じゃないんだからっ!」
いきなり腕をつかまれたまま、頬を張り飛ばされた。
体ごと吹っ飛びそうな勢いだったけど、私は倒れることもできなかった。ヘイロンは、依然、私の腕をがっしりと捕らえていた。 腕をつかまれたそのままの状態で、私は糸の切れた操り人形のようにヘイロンの腕からぶら下がった。
そのまま再び腕を吊り上げられ、今度は反対側から頬を思いっきり打たれた。
支えを失って私は今度こそ床に崩れた。口の中いっぱいに血の味がした。
頭がくらくらする。私は浅い息をつきながらやっとの思いで顔をあげた。
「言いたいことはそれだけですか?」
ヘイロンがせせら笑うように言った。
「少しは素直になったらどうです?どうせ何もできないくせに・・。」
そのままゆっくりと私に歩み寄ってくる。
「どうやら、あなたにも少し教育が必要なようですね。」
再び腕をつかまれて、そのまま部屋の中を引きずられると、さっきの長いすの上に引きずりあげられた。あっという間にドレスの前を両手で引きちぎられる。布地が破けてボタンがバラバラ
とはじけとんだ。
「女には興味は無い。だけど、あなたのような無知で甘ったれた女にお灸をすえるくらいのことはできるんですよ。」
愛情も関心も、欲望すら無い。ひたすら冷たい目だった。
私は一瞬もそらさずにその瞳を見返した。憎しみじゃない。怒りも湧いてこない。こんなの嘘っぱちだ。こんなの強さじゃない!あなたなんて何も分かってないじゃない!
髪を押さえられ、無理やり唇を押し付けられそうになったその瞬間、私は全身の力を振り絞って、死に物狂いでヘイロンの腹部を膝で思いっきり蹴り上げてやった。
ヘイロンの動きが止まった。ヘイロンが皮肉な目で私を見た。何の効き目も無かったことは明らかだった。私は負けるもんかとその目を見返した。
先に目をそらしたのはヘイロンの方だった。
「馬鹿馬鹿しい・・・・。」
ヘイロンはあっさりと私の体から離れると、私に背を向けて、心なしか苛立たしげな様子で懐から出したタバコに火をつけた。
「そんなに怖い目に遭いたければ、止めません。行きなさい。入り口はそこの鏡の後ろ側です。」
ヘイロンは奥の鏡を指差した。
「後悔なさい。私がどんなに親切だったか、後で思い当たるでしょうよ。言っておきますが、中でばったりご主人にあえるなんて、そんな絵物語みたいな偶然の確率は0.001%もありはしませんよ。少しでも近くで死にたいなんてセンチメンタルな妄想に捕らわれているなら、それもいいでしょう。勝手に行きなさい。」
「有難う。お言葉に甘えて行かせていただきます。」
私は慌てて立ち上がると、ドレスの前をかき合わせ、辛うじて残っているボタンで留めた。
ヘイロンの目の前まで歩み寄ると、足元に落ちていたルヴァのターバンをひったくるように掴んだ。
「それと・・・センチメンタルな妄想なんかじゃありません!絶対連れて帰りますから!あなたになんか、絶対!負けませんからっ!!」
言い捨てると私は慌てて鏡の取っ手を掴むと、その反対側に体をすべりこませて、扉を閉めた。
急にあたりを一面の闇が覆った。
ヘイロンが追ってくる気配は無い。
私はゆっくりと暗闇の中に向き直った。
この暗闇のどこかにルヴァがいる。
ルヴァが・・・・私を呼んでいる。
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