20.歌声

Luva


ここに入って3日は過ぎたと思う・・・・・。まだ5日目は来ていないと思う。
時計を持っていないので、正確ではない。それは私が歩数を数えて自分で計算し、自分で作った時間だった。
体が重かった。左腕を中心に全身が熱を持っているようで、腕は揺れるたびに相変わらず突き抜けるように痛んだ。
最後に目を覚ましてから、まだ1時間程度しか経っていない。まだ休むわけにはいかなかった。

根性とか精神論とかそういう問題ではなくて、こういう場所では時間感覚を失うことは致命的だった。昼夜とか時間とか、人間にはそういう絶対的なものが必要なのだ。気ままに休んでいると、徐々にその間隔は短くなり、ついには立ち上がれなくなる。暗闇で空間と時間の二つの感覚を失うと、精神は容易に恐慌をきたす。10分なのか、1年なのか、1歩なのか、1キロなのか・・・・。自然の「絶対」を失うと、人間はもろいものなのである。

「アンジェリーク・・・・。」
ここに入って何度目か、私はただひとつの救いである守護天使の名前を呼んだ。あなたの存在がここまで私を引きずってきた。だけど、それもそろそろ限界のような気がする。頭の中の地図は時々曖昧にぼやけた。曖昧なまま機械的に角を曲がってしまうと、もう1からやり直しだった。最初から回りの道筋を確認し、頭の中の地図と照らし合わせて現在地を確認する。・・・それはとても集中を要する、骨の折れる作業だった。後、何回これができるか・・・・自信がなかった。

いつの間にか、私は立ち止まっていた。
歩みとともに思考も停止していた。
立ち止まると時間も止まる、思考を止めると場所を見失う。
気持ちは焦っているのに、体は意地でも休息を要求していた。休息を・・・下手をすれば永遠の休息になりかねないのに・・・・。

「アンジェリーク。」
守護天使の名は既に効力を失っていた。天使のご加護も地下の厚い壁のその奥までは届かないらしい。
私はずるずるとその場に座り込んでしまった。
道のりはまだ半分もこなせていない。体力と気力は時間を追うに連れて衰えてゆく。こんな調子ではたどり着くまで何日かかるか・・・・たどり着けるかどうかさえ危うかった。 それよりも何よりも、もう何も考えたくない。
私は闇の中、頭を抱えてうずくまってしまった。
集中の糸は完全に切れていた。私は何度目か、また頭の中の地図を手放していた。


そうして、どのくらい時間が経ったのだろう。


完全に脱力している私の耳に、かすかな音が響いてきた。

「・・・・・・・・・・・・・」

・・・・誰かが・・・・歌っている?

『さやけきみ空に輝ける星、そは我らの願い・・・・』

そう、それは歌声だった。

『大いなる世界守り続けん・・・・・ 』

聖スモルニィ女学院の校歌だ。
いささか調子っぱずれなその声の主は・・・・。

アンジェリーク!

私は一瞬で跳ね起きた。
間違いない。アンジェリークの声だった。
そうだ。アンジェリークに決まっている。他に誰がこんな状況で歌なんか歌おうとするもんか!

「アンジェリーク!!!」
私はこれまでに出したこともないほどの大声で叫び、叫んだ拍子にまた腕に激痛が走って屈みこんだ。

「ルヴァ・・・?ルヴァなの?」
暗闇を風が突き抜けるように、あなたの声が聞こえた。
「アンジェリーク、あなたなんですね?」
「ルヴァ?そこにいるの?ここね、真っ暗でなにも見えないの。」
「そこにいてください!動かないで!私が探します!」
飛び出しかけて私は慌てた。反響で方角が分からない。
「場所が分かるように、声を出してください!何かしゃべって!」
「何かって・・・」
「校歌!さっきの校歌でいいです。歌ってください!」

アンジェリークがまた歌いだした。場所にそぐわず妙に元気な歌声だった。
それにしても、なんて調子っぱずれなんだろう。厳かな校歌が、アンジェにかかっては祭のお囃子みたいに浮かれて聞こえた。 私は石壁に耳を押し当てながら思わず吹き出してしまった。

アンジェリーク。何でだろう?こんなどうしようもない状況で、私はさっきまで一歩踏み出す気力も失っていたというのに、頭と五感に再び血が通って回転しだすのがはっきりと感じられた。歌声はどんどん近くなり、それにあわせて私は急速に自分が、自分を取り戻しつつあるのを感じていた。

「アンジェリーク!!」
彼女の影をみつけ、その腕に触れたとき、私は思わず片腕で彼女の体を力いっぱい抱きしめていた。
アンジェリークが思い切り私を抱き返したので、私は思わず悲鳴をあげた。
「大丈夫?ルヴァ・・・怪我してるの?・・・・ ちょっと待ってね。」
アンジェリークは盛大にスカートを捲り上げるとペチコートを裂いて私の腕を縛り、ぶらっと垂れ下がったまま自分で制御できなくなっている私の左腕を布で首から吊ってくれた。
不思議なことに、たったそれだけで、思考をかき乱す強烈な痛みは急速に治まっていった。
一瞬私は彼女がサクリアを使ったのかと思ったくらいだった。しかし、そのはずは無かった。アンジェリークはあの砂の星での時空移動の後、すっかりサクリアを失っていた。

落ち着きを取り戻した私は、懐中電灯でアンジェリークの姿を見て、再び唖然とした。私が形だけでも懐中電灯や食料品を持っているのに対して、アンジェリークは完全に手ぶらだった。彼女の服装は埃にまみれてかぎ裂きだらけになっていたけれど、見るからに動きずらそうな補佐官用の白いレースのロングドレスだった。こんな格好で、何ひとつ持たずに、暗闇の中を一人で歩いて来たんだろうか。まるで奇跡のようだった。暗闇の中に閉じ込められると数時間で発狂するケースもあるのだ。普通の人間だったら堪えられるものじゃない。私でも食料や懐中電灯がなかったら自信がなかった。それをこの人は歌を歌いながら一人で歩いて来たのだ。

「良かった、会えて。歌をうたったのが良かったのね。私って冴えてる。」
暗闇の中で彼女がくすくす笑った。

こんな状況で、生きて出られるかどうかも分からないのに笑うなんてどうかしている。 どうかしているはずなのに・・・・気が付いたら私まで、笑っていた。どうかしているのは私のほうだ。この人がいるという、ただそれだけで、いきなり日の曜日の自宅の書斎にいるような、そんなくつろいだ気分になってしまっているのだから、暢気としかいいようがない。
「はい。これ、忘れ物・・・・・・。」
アンジェリークは手のひらに握り締めていた布を私の目の前に差し出した。それは、ヘイロンに奪われた私のターバンだった。
アンジェリークは私を座らせると、まるでいつもの朝のような自然さで、私の頭にターバンを巻いてくれた。

今度は私がアンジェを座らせて、彼女のあちこち傷だらけの手足を手当てした。布袋の中のクスリは家庭用の常備パックのようないいかげんなもので、ろくな傷薬がないかわりに、目薬や二日酔いのクスリ、睡眠薬のようなものまで入っていた。それでも何とか手当てを済ませると、私はアンジェリークに水を飲ませて乾パンを食べさせた。

アンジェは乾パンを見るのが初めてらしく、目をまるくして一口かじったあげく「固〜い!」と笑った。

不安や疲労はきれいに消えていた。この人の笑顔が、全部押し流してしまった。
そうだ。アンジェリークさえいればいいのだ。私は改めて納得した。
この人さえいれば、他には何も要らない。極端な話、ここで生きていったっていいんだ。食料を確保するのに多少骨は折れるかもしれないけれど、生きていけないわけじゃない。
そこまで途方も無いことを考えると、またちょっと笑えてきた。

私は完全に落ち着きを取り戻していた。今なら将棋で7手先まで考えろといわれても、できる気がした。

「アンジェリーク」
振り向いたアンジェリークに私はゆっくりと微笑みかけた。
「私に少し時間をください。その間、あなたは・・・・・」
私は自分の自由になる右手を彼女の手のひらに委ねた。
「この手をずっと握っていてくださいね。」

アンジェリークはにっこり笑うと私の手をそっと握った。
それは強くも無く、弱くも無く、本当に、私が望んだとおりの感触だった。

私は目を閉じると全神経を思考に集中させた。
アンジェリークをさがしながら 曲がった角、通った分かれ道の並び順をひとつひとつ思い出して記憶の中の三つの地図と照らし合わせる。

集中力を総動員して思い浮かべた結果。1枚の地図の、ある一角が、歩いた道にぴたりと当てはまった。
私は頭に浮かんだ地図を、確実に脳に刻み込んだ。

「歩けますか?」
私の問いに、アンジェリークは笑顔でうなずいた。
「 はい。だいじょうぶです!」
「 じゃあ、行きましょうか?」
私は立ち上がると、アンジェに手を差し伸べた。
「一仕事片付けて、早く、帰りましょう。」


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