7. 異端

Butlar


あの事件があってからというものの、旦那様もアンジェリーク様もすっかりふさぎがちになってしまわれました。
小さい坊ちゃまも、敏感なお子でしたから、それに何よりショックも大きかったのでしょう、いつもよりずっとおとなしくなられて、外に出ようとも走り回ろうともなさいませんでした。

その日私は旦那様とアンジェリーク様がお出かけになった後、市場に買い物に行くのにユーリ様をお連れすることにしました。
淋しげにふさぎこんでいらっしゃるお姿がおかわいそうで、賑やかなところにお連れして差し上げれば少しはショックが薄れて元気になられるのではないかと思ったのでございます。

賑やかな市場に出ると、ユーリ様は、それは小さなお子様のことですから、辺りの賑やかな様子に心引かれたご様子で、少しは明るい表情を見せられるようになって参りました。

ひとしきり市を見物して華やかな大道芸などをお見せした後で、私は坊ちゃまに屋台で売っている動物の形の飴細工を買って差し上げました。
坊ちゃまは飴細工がとても気に入られたようで、ためつすがめつ眺められたあげく、やっとそれを口にされました。

「おじいちゃん。あのね、僕ってへん?」
飴細工をお行儀よくなめながら坊ちゃまが口にしたこの言葉に、私はびっくり致しました。
「僕って悪い子?」
小首を傾げて真剣に尋ねるそのご様子に、私は思わず胸が詰まりました。やっぱり忘れたようでもお忘れになっていないのでございます。当然です。どれだけ傷つかれたことでしょう。

「とんでもございません。じいはこれまで坊ちゃまほどお可愛らしくてお利口なお子は見たことがございませんよ。」
「お父さんとお母さん、僕のせいでケンカしたの?」
「何をおっしゃいますか。お父様もお母様もけんかなどなさっていらっしゃいませんよ。坊ちゃまのせいだなんて、とんでもございません。お二人ともこのところお仕事がお忙しくて、少ーし、お疲れなのでございますよ。すぐに元気になられます。」

私はユーリ様の小さな手の中の飴玉が、すっかり小さくなっているのに気が付きました。
「ああ、もう召し上がってしまわれましたか、もうひとつ、今度は別なのを買って差し上げましょうね。」
ところがユーリ様は屋台に向かいかけた私の袖を小さな手で引っ張ると、こうおっしゃるのです。
「おじいちゃん。僕、もういい。要らないよ。 お父さんがね、子供はゼイタクしちゃだめだって。これ、ゼイタクでしょ?」

この健気なお言葉に、私はもう涙が出そうになってしまいました。
あんな目にお会いになってどんなにかショックでしょうに、坊ちゃまはそれでもこうして旦那様のことを慕って、旦那様がいらっしゃらないところでも、きちんとそのお言いつけを守ろうとしていらっしゃるのです。
小さな子供が色とりどりのお菓子に引かれる気持はそれはもう自然のものでございます。それをこの坊ちゃまは、お父様のお言いつけのほうが大事だとおっしゃるのです。
こんなに聞き分けのいい、人の気持を察する子に、どうして旦那様があのようなむごいことをなさろうとしたのか、私には全く訳がわかりませんでした。

私が黙り込んでしまったのを見て、坊ちゃまはにっこり笑うと、今度はこんなことをおっしゃいました。
「僕、おじいちゃん、大好きだよ。また大きいお魚切って見せて。」
それはまるで、しんみりと沈み込んでしまったこちらの気持を察して、逆に労わって引き立てようとしていらっしゃるかのようでした。
「よろしゅうございますとも。では、今日は大きなお魚を買って参りましょうねえ。」私は坊ちゃまににっこりと笑ってお見せすると、坊ちゃまの手を引いて、魚を商う一角への道を曲がりました。


ちょうどその時、
にわかに前方が慌しくなりまして、前の方から「暴れ馬だ!逃げろ!」というような声が聞こえて参りました。
あれよあれよという間に、道の両脇の露店が次々となぎ倒されて、栗毛の逞しい若駒がすさまじい勢いでこちらへと突進してきたのでございます。
避けるも何もあったものではございませんでした。
私は咄嗟に通りから背を向けると、道端にうずくまって小さな坊ちゃまを懐に庇いました。


「だめぇえええ!」
空を切るような坊ちゃまの悲鳴が聞こえて、
恐る恐る振り向いた私の目に映りましたのは、それはまるで悪夢のような光景でございました。

坊ちゃまは私の両脇の下から通りに向けてまっすぐに両腕を伸ばしていらっしゃいました。小さな手のその指先から、夜の闇のような黒雲がもくもくと湧いて出ていたのでございます。
すべては一瞬のことでございました。黒雲に取り巻かれた馬は、前傾した姿勢のまま、私のすぐ後ろで硬直したように止まったかと思うと、そのまま、まるで何か大きな手で絞られたように、一瞬で干からびてしまったのです。

広場は一瞬水を打ったように静まり返りました。

目の前には前傾姿勢のままミイラ化した馬と、まだあたりを漂っている黒い霧のようなものが見えました。

ユーリ様は、ご自分でもこの光景に愕然となさっているようでした。

干からびた馬のむごたらしい姿に目をやると、ユーリ様は声を上げて泣き出してしまわれました。
「ごめんなさい。・・・ごめんなさい・・・、起きて・・・・・・・。」
すると、泣きじゃくるユーリ様の手のひらから今度は翠色の光の粒が溢れ出したのです。
すさまじい勢いで溢れ出した光の粒は、干からびた馬の周りを取り巻いて、更に溢れて広場を埋め尽くしそうな勢いで流れ出しました。

そして・・・・そしてなんと、溢れる光の中から馬のいななきが聞こえて、光の切れ目から先ほどの馬がすっかりおとなしくなってダク足を踏みながら出てきたのでございます。

あちこちで悲鳴が沸き起こり、この大掛かりな手品のような光景を前に広場はにわかに騒然として参りました。
何人かが「地の守護聖様の・・・・」「ルヴァ様の・・・」と、旦那様のお名前をささやくように口にするのが聞こえて参りました。

ユーリ様は、周囲の無遠慮な視線がご自分に集まっているのに気付き、怯えたように青ざめて、震えていらっしゃいました。
私はユーリ様を抱き上げると大勢の見物人どもの視線からユーリ様を隠すようにして、待たせてあった馬車に慌てて乗り込んだのでございました。



back   next

創作TOPへ