29.紅のしずく(3)
Julious
日の曜日の朝。
夕べ持ち帰った書類を午前中に処理してしまおうとデスクに広げているところに、盆を捧げて入ってきたのはコライユだった。
「・・・・・なぜ、そなたなのだ?」
問いかけるとコライユは驚いたように目を丸くした。
「・・・・・わたくしでは、いけませんでしたか?」
「執事から聞いたであろう?ここで働くものは毎週交替で休みをとることになっているはずだ。そなたはこの月初めから毎日来ているではないか?・・・・何故休まぬ?」
「でも・・・・・」
コライユは口ごもると、机の上に並べられた書類に目を落とした
「旦那様はこの月初めからずっと、お休みになっておりませんわ。」
「私は仕事があるのだ。」
「わたくしも・・・わたくしも仕事があるのですわ。」
コライユは、両手の盆を私に突き出すようにして、負けじとばかりに胸をそらせて見せた。
お茶を入れるくらいのこと、そなたでなくとも誰でもできよう―――そう言いかけて、私は慌てて言葉を飲み込んだ。いけない。そのような言い方をしたら、誇り高いこの少女はひどく嘆くに違いない。また泣かれたら、泣き止むまで半時は覚悟せねばなるまい。
私はもう一度コライユの唇を結んだ大真面目な表情を見て・・・・・思わずため息をつくと、机の上のたった今広げたばかりの書類を重ね始めた。
「良い。今日は仕事は止めだ。・・・そなたも休むがいい。」
「はい・・・・・。」
そう答えながら、コライユはまだ疑わしげに書類を片付ける私の手元を見守っている。
書類を片付け終わると私は再びコライユに向き直った。
「聖地の中は、もうあちこち見て回ったのか?」
「いえ・・・。」
「そのような視野の狭いことでどうするのだ?自分の居る場所のことくらい知っておこうという向上心はないのか?」
私の言葉にコライユはきゅっと唇を噛むと顔を上げた。
「これから・・・・ただ今からすぐに行って参りますわ」
「では、急いで支度せよ・・・あまり待たせるな。」
「えっ?」
「とりあえず、遠乗りにでも行こう。・・・・今日は天気が良い」
そして、なぜか・・・・・
午前中に明日の会議の準備を片付けるつもりが、気がつけば私はコライユを連れて遠乗りに出ていた。
慌てて用意したややサイズの合っていない乗馬服は却ってコライユの華奢で均整の取れた体を子供のように愛くるしく見せていた。
コライユは嬉しくてたまらないといった表情で、はしゃいでいた。
「遠乗りなんて、久しぶりですわ。風が気持ちいい・・・・。あっ、あれはなんという花でしょう?とても美しい花ですのね?風で花びらが散ってしまうのがなんだか可愛そう。」
気難しいレイティアスを信じられぬほど見事に乗りこなしながら、コライユは左右を眺めてはしきりと感嘆の声を上げていた。
「・・・・あの峰に雲がかかっているのもまるで絵のようですわ。旦那様・・・聖地はとても美しいところですのね?」
「旦那様は止さぬか・・・・休みに働くなと言ったのはそなたであろう?」
「・・・でも・・・・・。」
「・・・名前で呼ぶのだ。」
ためらうような沈黙の後、コライユは少し恥ずかしげに、つぶやくように私の名を呼んだ。
「・・・・ジュリアス様。」
聖地を一望できる丘の上につくと、私たちは馬をとめた。
手を取って馬から助け下ろすとき、私はコライユの小さな手の指先が真っ赤に荒れていることに気がついた。
「ジュリアス様・・・・」
見られていると気づいて、コライユは恥ずかしげにそっと手を引っ込めた。
「コライユ。そなた、どうして働きたいなどと思ったのだ。」
私は以前からどうにも気になっていた質問をコライユに投げかけた。
「執事頭は心根の優しい男だ。そなたを実の娘と思い大事に世話したいと言っている。いったいそのどこが不服なのだ?」
「不服だなんて!」
コライユは慌てたようにかぶりをふった。
「感謝しておりますわ。あの時お義父様に買っていただかなかったら、私どうなっていたか・・・考えても恐ろしいですわ。」
「ならば何故?」
「・・・・・ジュリアス様には、きっとお分かりになりません」
コライユは私の顔を見上げると、少しためらった後で、今度は堰を切ったように語り始めた。
「わたくし、幼い頃から父や母やみなから・・・それは大事にされて育って参りましたの。そして、そうされるのが当然だと思って疑ったこともございませんでした。・・・・・それが、家族や家をすべて失って見て、わたくし愚かにもその時になってやっと気がつきましたの。私が愛され、大事にされていたのは、すべて父がいて、あの国があったからのこと・・・・ひとりになったわたくしには何の値打ちもなかったのですわ。何も知らない。何もできない。市場で靴を磨く子供にですらかなわない。・・・だからわたくしは・・・・。
」
「つまりは自立したいというわけなのだな。」
「そう・・・ですわ。きっと。」
「無理だな。」
「えっ?」
「今のようなやり方では、何年勤めようと独り立ちなどはできぬ。」
「どうしてでございますか?」
「召使になりたいのか?掃除婦になりたいのか?そなたは何をしたい?自分をどうしたいのだ?それが分からないうちは人に使われ、流されるだけだ。自分の力で立っているとは言えぬ。」
コライユは私の目から視線をそらすと、そっと目を伏せた。
「ジュリアス様は・・・意地悪ですわ。」
「私の言うことは間違っているか?」
突然、ぱさっと音を立てて、コライユが私の足元に跪いた。
「では、教えてくださいませ。わたくしはどうしたらよろしいのでしょう。」
見上げるコライユの表情は、真剣そのものだった。膝にかけられた指先がわずかに震えている。
「ジュリアス様のおっしゃるとおりです。わたくし自分が無知で未熟だということを認めますわ。この世の中にどんな仕事があって、私に何ができるのか、わたくし何一つ存じません。でもわたくし嫌なのです。このまま一生誰かにすがらねば生きていかれない・・・それは嫌なのです。」
私はコライユの折れそうに細い腕を取ると、そっと引き起こした。
「明日からは水仕事はしなくて良い。・・・・・・・ そなたは私の秘書をするのだ。当分休みはないぞ。」
「わたくし、水仕事は少しもいやじゃございませんわ。」
抗議するように言うコライユに、私はわざと厳しい声で言い返した。
「勘違いするな。もっと厳しい仕事を与えると申しておるのだ。楽がしたければ無理にとは言わぬ。今の仕事を続けてもらっても構わぬ。」
コライユはまたきゅっと紅い唇を噛んだ。
「わかりました。・・・・新しい、そのお仕事をいたしますわ。」
「風が出てきた。そろそろ戻ろう。」
レイティアスの背に戻ろうとするコライユに、私は自然に貴婦人にするように手を差し出した。
コライユも自然に私の肩にすがり、差し出した腕を踏み台にして、ふわりと馬上にまたがった。その間もまったく体重を感じなかった。
日差しに溶けてしまいそうな小さく華奢な体。
ただ純粋で、世間のことは何一つ知らぬように見えて、この小さな肩は苦しみや悲しみだけは知り尽くしているのだ。
ここにたどり着くまで、ずい分つらい思いをしてきたのであろう。
それでもコライユはまだ、負けたくないと、戦いたいと言う・・・・・。
「面白い方ですのね。ジュリアス様は。」
しばらく馬の背に揺られていると、コライユがふいにくすりと笑い声をたてた。
「わたくしのためを考えてくださっているのに、わざといつも厳しいおっしゃりかたをされるのですね。・・・・でもわたくし、もう分かってしまいました。もう手遅れですわ。ジュリアス様が何をおっしゃってもわたくしもう怖くはございません。悲しいとも思いません。・・・・・・ジュリアス様はとてもお優しい方ですわ。」
別に優しいわけではない。
ありていに言えばつられているだけなのだ。
この少女があまりに真剣なので、いつも同じ真剣さで答えぬわけにはいかなかくなってしまうのだ・・・・。
黙り込んでしまった私を見て、不安になったらしい。コライユはおずおずと声をかけてきた。
「あの・・・・ 申し訳ございません。お気に障ったのですか? わたくし楽しくて、それでつい調子に乗りすぎてしまったのですわ。お許しなされて・・・あの、旦那様。」
「まだ遠乗りは終わっておらぬ。 名前で呼ぶのだ。」
「あ・・・ジュリアス様・・・」
夕日が迫っていたが、私は敢えて馬の脚を早めようとは思わなかった。
まだしばらく・・・急ぐにはあたらない。
しばらくはデスクにつまれた書類のことも、早朝からの会議のことも考えるまい。
夕日がこんなに美しいのだから・・・・。
「コライユ」
「はい、ジュリアス様」
「次に休みが取れたら、西の森へ行こう。・・・・今の時期花がたいへん美しい。」
「はい。・・・・ジュリアス様。」
夕日に包まれてコライユが嬉しそうに微笑んだ。
|