29.紅のしずく(4)
Corail
「・・・・旦那様。お言いつけの書類をお持ちいたしました。」
ドアを開けて中に入った私は、部屋の奥にジュリアス様と向かい合わせに腰掛けているその男を見て、手にした書類を危うく取り落としそうになった。
ジルオールが聖地にいることを私は知っていた。
聖地に来たばかりの頃、心細さについ、密かに彼の屋敷を訪ねてしまったこともあった。
彼の目的と任務を考えれば、聖地のどこかで彼と出くわすことは充分ありえることだったし、覚悟もできているつもりだった。
だけど・・・今は、ここでは会いたくない。
ここで、この人物の目の前でジルオールと顔を合わせるのは・・・それだけは耐えがたかった。
「ジルオール。紹介しよう。秘書のコライユだ。」
何も知らないジュリアス様は当たり前のように私をジルオールに紹介した。
「はじめまして・・・うわさ以上に美しい方ですね。」
私の動揺にとっくに気づいているくせに、ジルオールはいかにも何気ない風の笑顔を浮かべて私に歩み寄り、手を差し出した。
「はじめ・・まして。」
私が震えながら差し出した手を、ジルオールは無造作に掴んだ。
ジルオールの手のひらが、一瞬、ジュリアス様の視線をかいくぐるように私の手のひらを大胆に撫でさすり、私は思わず悲鳴をあげてその手を振り解きそうになった。
「どうなさいました?お顔の色がすぐれないようですが・・・?」
まだなお手のひらの中で私の手を弄びながら、ジルオールは口先だけはいかにも心配げな口調になった。
「いえ・・・。」
「どうしたのだ、コライユ?」
書類を確認していたジュリアス様が慌てた表情で駆け寄ってきた。
「具合でも悪いのか?何故早く言わぬのだ?・・・・少し座って休むがよい。」
「いえ・・・大丈夫でございます。・・・あの、わたくしもう失礼してよろしゅうございますか?」
ほとんど返事も待たずに部屋を出ると、私は逃げるように屋敷を飛び出した。
怖い・・・・
私は正直、ジルオールが恐ろしかった。
異様な仲間たちの中で、比較的大人しそうに見えた彼は、実は一番やっかいで残酷な男だった。私はいとも簡単にあの男の罠にはまってしまった。
あの男はいつだって私が悲鳴をあげて泣き叫ぶまで、泣きながら何度も許しを乞うまで決して満足しようとはしなかった。
そして、さっきのあの目・・・あの手・・・。
「逃げることはないでしょう?」
厩舎までひた走りに走って、胸を押さえて息を整えていると、すぐ後ろからあざ笑うような皮肉な調子の声が聞こえた。
「ジルオール・・・・。」
振り向くといつの間に先回りしたのか、木立の影であの男が澄ました顔で立っていた。
「前はあなたの方から来てくれたじゃないですか?・・・・最近ずい分冷たいんですね?・・・それはまあつまり、あなたの任務がうまくいっていることと、そう解釈していいんでしょうね。」
「こんなところで・・・そのような話はお止めください。」
「じゃあ・・・・今夜。私のところにいらっしゃいますか?」
思わず顔を上げ睨みつけると、ジルオールは悪びれた風もなくにこやかに笑ってみせた。
「冗談ですよ。私だって事の大小くらい弁えてますからね。あなたの仕事の邪魔はしません。話はすぐに終わりますよ。
・・・・・あなたにね、もう少しペースをあげていただきたいんです。私の方が、もうあまり長くはもちそうにないんですよ。 うるさく付きまとってくる嫌ぁなヤツがいましてね。それに肝心の私のサクリア自体がそろそろ尽きそうになってるんですよ。何しろ大慌てでつぎ込みましたからねぇ・・・。」
そこまで言うとジルオールは目を細めて私に向かって歩み寄ってきた。
「ですが・・・・私はこの間、やるべき任務はほぼ完了しましたよ。後はあなたです。 私がいなくなった後であなたを一人で残して行くのは心配ですねぇ。」
「ご懸念には及びませんわ。」
肩に置かれた手を反射的に払いのけると、 ジルオールはくぐもった笑い声をあげた。
「そうですかね?さっきのあなたの様子を見てるとちょっと心配になっちゃいましたがね。」
再びにらみつけると、ジルオールは今度は大げさに後ずさりしてみせた。
「あー、怖いですね。そんな目で睨まないでくださいよ。こんなところで力なんか使わないでくださいね。正体がばれちゃいますよ。・・・・まさか『あなたに限って』ミイラ取りがミイラになるような、そんなことは有り得ないと信じていますがね・・・・。」
「おっしゃりたいことはそれだけですの?」
「冷たいことを言うんですねぇ。女とは要済みの男にこうも冷たいものですかねぇ・・・・。それともあの首座の男、そんなに良かったですか?」
「・・・・・・・・!」
思わずかっとして振り上げた手は空中で難なくジルオールに捉えられた。
片手をつかまれたままじりじりと引き寄せられてゆく・・・。
私を胸の中まで手繰り寄せると、ジルオールは勝ち誇った表情のまま、口惜しさに震えている私のあごを掴んで、わざとゆっくりと唇に口付けた。
「離・・・・してっ!」
数分間もの唇の陵辱をやっと振り切ると、男は笑いながらさっさと私から飛びのいた。
「あははは・・はは・・嘘、嘘ですよ。もう行きます。あなたを怒らせても仕方ないですからね。」
ジルオールは背を向けかけて、そしてもう一度振り返ったかと思うと、今度は震え上がりそうなほど、冷たい声を出した。
「ペースをあげなさい。これは命令です。手を抜いたら私には分からなくてもあの方にはお見通しですよ。
・・・・・・ それに、これであなたの望みもかなうでしょう?」
ジルオールの姿が視界から消えるのを待たずに、私はしゃがみこんで地面に唾を吐いた。唇を奪われた時にわざとのように流し込まれたあの男の唾液が、まだのどの奥に残っているようで吐き気がした。
こんなのいつものこと。嘆くにはあたらない・・・・。
男はみんな、こういう生き物なのだから・・・・。
めまいがしそうなほどの不快感とともに、涙がこみ上げてきた。
立ち上がる気力さえ湧かない・・・・。
頭の中にぼんやりと影がうかんだ。
紺碧の空を映す強くゆるぎない眼差し。
一点の曇りも穢れもない、まばゆい光・・・・。
「助けて・・・・・」
何故だろう。
愚かなことと、分かりきっているはずなのに
私はいつしか、胸の中のその影に、泣きながらすがりつくように両腕を伸ばしていた。
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