57.家

Luva



呼び鈴を鳴らしても、ドアを何度叩いても、アンジェリークは姿を見せなかった。


ドアを叩き続ける私に、数件先のドアから浅黒い顔をした女性が顔を出し、不審そうに私を眺め回しながら言った。

「天使ならいないよ。ここ数日みかけないけど・・・。」
「どこに行ったか、ご存知ないですか?あの・・彼女のよく行くところを、ご存知でしたら教えていただけませんか?」
「あんた誰よ?天使になんの用?警察を呼ぶよ?」
女は叩きつけるように言うと、音を立ててドアを閉めた。

警察を呼ばれる気遣いはなかった。移民は警察との接触を極端に嫌う。余程自分の身に危険が迫らない限り、警察など呼ぶわけが無かった。
私は唇をかみ締めると、一呼吸置いて、そのまま肩からドアに体当たりした。

内鍵がかかっていなかったらしく、何度目かで安普請のドアはあっけないほど簡単に開いた。




その奥に広がっているのは、驚くほど小さく、慎ましやかな空間だった。

たった一間の部屋は、ドアを開けると玄関脇のキッチンから壁際のちいさな寝台まで、すべてが一目で見渡せた。

傷だらけの床は丁寧に磨きこまれ、脚の長さの違うテーブルには、短い方の脚の下にカラフルな木切れが押し込まれていた。安物だらけの小さな部屋は、それでもどこか楽しげで、部屋全体をあの人の優しい、華やいだ雰囲気が覆っていた。


男が住んでいる気配なんかどこにもない・・・微塵もなかった。


優しい色彩に包まれた部屋の中で、窓辺にかけられたカーテンだけが、落ち着いたグリーンだった。

そうだった。結婚したばかりの頃、家中をオレンジとピンクで埋め尽くそうとするアンジェリークに、『せめて寝室のカーテンくらいは落ち着いたものに・・・』と、私が苦笑交じりに頼んだのだ。
そうしたらアンジェリークはどこからか柔らかなグリーンのカーテンを調達してきた。
静かで華やかで、ちょうどふたりの中間点みたいな優しいグリーン。
裏が透けそうなコットンのカーテンは、私たちの寝室にかかっていたものと色だけはそっくり同じだった。


待っていてくれた・・・・。

私は凍りついたようにその場に立ち尽くしていた。

間違いなく、アンジェは私を待っていてくれた。
5年間、たった一人で、疑いもせずに・・・。


考えれば分かるはずのことだった。
あの人がこれまで一度だって私を裏切ったり疑ったりしたことがあっただろうか?
一度も・・・・。 一度だってそんなことはなかった。
いつだって、私がどんな馬鹿な真似をしたって
あのひとは何の理由も条件もなしに、ただひたすら私を信じ、愛してくれた。


・・・アンジェリーク・・・・。


足元がふらついた。
支えを求めて後ろ手に伸ばした指先に、何か固い、小さなものが触れた。

小さな鏡台の上に、ぽつんと置き捨てられた・・・・
金色の光を放つそれは、私たちが結婚式の日に交換した指輪だった。


私はとっくに指輪を外していた。
ここに来る直前、私は何もかもを忘れるつもりで、自分の指輪を部屋のダストシュートに放り込んで来てしまった。


片割れを失った指輪は、それでも何かを信じて、待っているかのように輝き続けていた。

「uxa die buneng lvgai die yuban・・・・」

指輪に刻まれた愛の誓い。

そう・・・あなたは確かに私の半分、 なくしてはいけない、大事な半身だった。
失えばお互いに生きてはいけないと知りながら、私は自分の手でその半身を体から引き剥がし、投げ捨てた。
裂かれた瞬間、あなたも血を流し、悲鳴をあげたのに、私は気づこうともしなかった。
自分の痛みしか・・・・見えていなかった。



どこに・・・どこに行ったのだろう?彼女は?


私はふらつく足を踏みしめて振り返った。
とにかく彼女を探さなければならない。
許されることではないにせよ、とにかく会って、あの人に謝らなければならない。



テーブルの上にはうっすらとほこりが積もっていた。
几帳面な彼女が見過ごすはずがない。
これは彼女が数日部屋に戻っていないことを示していた。

アンジェ・・・。

私はいても立ってもいられない気持ちでドアに向かった。



部屋を出ようとした瞬間に、懐の非常用の通信機がけたたましい音を立て始めた。

「ルビア・・・?」

モニターに浮かび上がったぼやけた画像はルビアだった。

「ヨカナーン!どこにいるの?すぐに戻ってちょうだい!早く!」
ノイズと共に、ルビアの今まで聞いたことがないくらい切羽詰った声が飛び込んできた。

「どうしたんですか?何があったんですか?ルビア!」
「ヨカナーン!!・・・急いで!あなたの大切な人が・・・アンジェリークさんが危険なのよ!」

「アンジェリークが・・・?」

何が起こったのか分からないまま呆然としている私にむかって、ルビアは畳み掛けるように言葉を続けた。

「監禁されているのよ。私をかばって自分が残ったの・・・何故だか分かるでしょう?・・・あなたのためなのよ!」

アンジェリークが、監禁されている?
ルビアをかばって・・・?・・・私の・・・ために・・・?

「行きなさい!ためらう必要なんかない、あなたは最初から自由なのよ。 ・・・・子供が出来たなんて、嘘。あなたを引き止めたくて嘘をついたのよ。・・・子供なんか、できるわけがない!だって、私たち何もなかったんだから!
・・・・あの人だけよ。・・・・あの人だけが本当にあなたを愛してるの!」

「・・・ルビア」

「最後の命令です。行きなさい!あの人を離しちゃだめ!絶対失くしちゃだめ!獲り返すのよ!・・・・何してるの!急ぎなさい!!」

「分かりました。・・すぐ、向かいます。」

激しく混乱したまま、私は通信のスイッチを切った。
映像が切れると同時に、通信端末にルビアから位置データが送り込まれてきた。


アンジェリーク・・・・


指輪を懐に押し込むと、私は通信端末を握り締めたまま、表へ飛び出した。


何が起こったのか、さっぱり分からない。

ただひとつ・・・今はもう、はっきりとした自覚があった。



―――アンジェリークが私を呼んでいる。
―――私は彼女の元へ、行かなければならない。



私はエアカーの座席に滑り込んだ。


心臓の鼓動が苦しいほど早くなっている。

愛している、愛している、愛している・・・・。
アンジェリーク・・・・。
私はあなたの元へ、行かなければならない・・・・。


発進するなり私はエアカーの速度を最高速度まで上げた。


とにかく空港へ・・・。
そして、1秒でも早く、



あなたの元へ・・・・。

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