58.愛してる

Angelique


「ねぇ・・・・『憎い』って言いなよ・・・。」

耳元でルードが呟くように低くささやく。
肘の内側の辺りに、冷たい刃物の触れる感触がした。

「言っちゃいな・・・。まだ頑張るつもり?」

優しい口調と裏腹に、ゆっくりと、容赦なく刃が体に押し付けられる。
柱にぴったりと縛り付けられた体は身じろぎすらできない。

「くぅっ、・・・うっ・・・・・・・・・。」

引き裂かれるような痛みに悲鳴をあげたつもりが、こぼれたのはかすれた息だけだった。
体中から冷たい汗が滲み出す。
からからに乾いた喉からは呻きすらでなかった。


痛い・・・苦しい・・・・

だけど、その痛みすら一瞬後にはあやふやになってしまうほど
・・・・体はぐったりと疲れきっていた。
全身が鉛のように鈍く、重く感じられた。

肘からゆっくりと生温かいものが滴り落ちてゆく。
入れ替わりに、体がどんどん冷たくなってゆく。

もう何日になるんだろう・・・・。
いったい、いつ、終わるんだろう・・・。
このまま・・早く終わって欲しい・・・。
もう、これ以上我慢できなくなりそうだった。


言えばいい。・・・ 我慢する必要なんかない。
彼が執拗に求めている言葉を、言ってしまえばいい。
言って何もかもが終わりになるなら、それでラクになればいいのに・・・。

だけど、口を開きそうになる瞬間に、いつも何かが私を押しとどめた。

優しい眼差し、温かい指先の感触、懐かしい声・・・誰の?・・・誰の?
・・・もうそれもわからない。



「死ぬよ?・・・このままじゃ。」

私は必死で、ほんの少し首を縦に動かした。
いい。・・・もうそれでいいから、早く終わらせて・・・。

「しょうがないね・・・セト。」

黒髪の若者が、見慣れた点滴用の機材をガラガラと押してきた。

気絶する寸前まで鞭打たれたり、体のあちこちを切られて貧血を起こしかけたその後で、必ず彼は私の手当てをする。
死なないように・・・だけど決して苦しみから解放されることがないように・・・彼らはまるで、その間合いを計っているみたいだった。

点滴の針が体に差し込まれると、ルードは再び私の頬にぴったりと頬を寄せてささやいた。

「ねぇ・・・ただ黙って手当てされてるのもつまらないだろう?
別な遊びを試してみよう。・・・いいことを考えついたんだ。
あんたの体をこれっぽっちも傷つけないで、素敵な夢を見せてあげる。」

いや・・・・・。

今度も声が出なかった。
僅かに首を横に振るのがせいいっぱいだった。

ルードの冷たい額が、コトンと音を立てて、私の額に押し付けられた。

「いい夢をごらん・・・・。」




閉ざした瞼の裏側に、ゆっくりと一つの映像が浮かび上がり始めた。


ルヴァと・・・・もうひとつの影はルビアさん・・・?


二人は私の目の前でゆっくりと口づけを交わし始めた。
はじめは遠慮がちに・・・それが段々、求め合うような深いものになる。


「いや・・・やめて・・・。」

乾いたのどから、初めて、擦れた声が出た。

やめて・・・やめて、お願いだから・・・・。

私はあえぐように何とかこの光景から逃れようと身悶えた。

目を閉じても無駄だった。
顔を背けることもできない。

ルヴァの手がルビアさんの腰を引き寄せる。
真っ白な腹部を繰り返し愛撫する。
彼女の腕がルヴァの首にかかる。
白いうなじにルヴァが激しく唇を押し付ける。

・・・いや・・・。おねがい・・・やめて、もうやめて・・・。

止めて・・・・。 お願いだから。
気が狂ってしまいそう。


涙も泣き声も出ないまま、私はすすり泣いていた。


認めるしかない。
割り切ったつもりになっていたのは、自分を騙す嘘だった。
・・・全然割り切れてなんかない。
胸の中を開いてみれば、あるのはどす黒い嫉妬だけだった。


「可哀想にね・・・裏切られたんだよ。」

耳元で声がささやく。

「きれいな羽根を持っていたのにね・・・。
本当はあんたが女王になるはずだったのに。 あの男はその羽根を傷つけて、あんたを飛べなくした。自分のそばに置いておくために・・・・。 だけど今になってもう、あんたなんて要らないって言うんだよ。」

「ごらん?あの男を守るためにあんたは傷ついた羽を何度も広げた。
あんたの羽根はもうぼろぼろじゃないか?
故郷も親も友人もみんな無くした・・・・あんたはもうなんの役にもたたない。誰もあんたを必要としてない・・・・・。」

「今ならまだ取り戻せるよ。 私たちの仲間におなり。
もう一度あんたの肩にきれいな羽を生やしてあげる。・・・・あの男を取り戻せるよ。 」

取り戻せる・・・?本当に?
ルヴァは私のところに帰ってきてくれるの?

「取り戻せるよ・・・・あんたさえその気になればね」

甘い声は誘うように繰り返した。


ルヴァ・・・・。
本当に、あなたがもう一度、帰ってきてくれるなら・・・・。



私はもう一度、固く閉じた瞼の裏側でルヴァの姿を思い描いていた。
ルビアさんの姿は消えていた。
ゆっくりと私を振り返ったルヴァの表情は何だかとても哀しそうだった。


それは、私の良く知っている表情だった。
何かとても哀しいことがあったとき、ルヴァはこんな表情をすることがある。
私には何となくルヴァの考えていることが分かった。
分かると同時に、何だか見ている私のほうがいたたまれない気持ちになってきていた。

私は微笑むと、つらそうな表情のままのルヴァの肩にそっと手を置いた。

どうしたの?・・・どうしてそんな哀しそうな顔、してるの?
ルヴァは困ったような表情で私を見上げた。
私はもう一度ルヴァに向かって微笑みかけた。

分かってるんだから・・・あなたはまた、自分を責めてるんでしょう?
私に悪いって・・・そう思ってるんでしょ?

ねぇ、そんな顔しなくていいから。
あなたのそんな顔、私は見たくない。
あなたはちっとも悪くなんかない。
だって、確かに5年は長すぎるもの。
あなたが他の人を好きになったとしたって、そんなの仕方がないじゃない?
誰にも、どうすることもできないじゃない?

うなだれていたルヴァがそっと顔を上げた。
いつもどおり励ましが成功したのを感じて、私は少し、嬉しくなった。

そうよ。元気を出して。
笑ってちょうだい。
私は心配いらないから、このとおり、大丈夫だから。

ルヴァは少し安心したように笑顔になると、
ゆっくり目の前から消えていった。


私はひとつ、寂しさと満足の入り混じったため息をついた。


だけど、ねぇ、ルヴァ・・・。
ひとつだけ、いいかしら・・・?

私、あなたのこと、忘れなくてもいいでしょう?
誰にも言わないから、まだあなたのこと、ずっと好きでいてもいいでしょう?

だって、あなたは私に本当にいろんなものをくれた。
執務室で泣き出した私の頭を、大きな手でずっと撫でてくれた。
私のわがままを真剣に叱ってくれた。
迷った時は手を引いてくれた。
死にそうな時もかばってくれた。
いつだって、私のことを、私以上に考えてくれていた。

そして・・・・
あなたは私にユーリをくれた。


ルヴァ
やっぱりあなたが好き。
思い出せばいつだってあなたは温かい・・・・。

愛してる・・・・愛してる・・・・・
愛してる・・・・ルヴァ・・・・。

・・・・この気持を教えてくれたのは、やっぱり、あなただわ。



「あいしてる・・・。」


うわごとのように私はつぶやいた。

この気持ちは止められない・・・。




Zet



ルードに額を押し付けられたまま、白い女はいつしか微笑を浮かべていた。
逆にルードのほうは、明らかに痺れを切らし始めたようだった。

「もう、止めよう。」
俺は黙って女の腕から点滴の管を引き抜いた。
「・・・・無駄だ。この女は言わない。ラクにしてやれ。 」

女から顔を上げたルードは、俺に向き直って毒づいた。
「あっは・・。知らなかったね。あんたにそんな仏心があるとはね。まだまだ序の口だよ。時間もたっぷりある。あきらめる必要ないだろう?」

強がったところで、勝負は見えていた。
ルードの負けだ。

俺は黙って女の額の辺を指差した。

さっきまで女の頭の中にいたルードにも、聞こえているはずだった。

―――あいしてる・・・・あいしてる・・・。

さっきから、この女の頭の中では不思議なトーンでこの言葉が繰り返されていた。何だか油断をすればこっちの方まで引き込まれてしまいそうだった。

ルードが神経質そうに眉毛を逆立てた。


「・・・犯してやる。」
「いいのか?・・・死ぬぞ?」
「頭の中に潜り込んで犯してやるのさ。」
そう言いながらルードの目には凶悪な殺意が溢れていた。

俺は、ルードが女に興味が湧かない体質の男だということを知っていた。
言いなりにできなかったのが余程悔しかったんだろう・・・・・俺は肩をすくめた。



ルードは女の額に額を押し当てると・・・・再び無言になった。

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

「ルードっ!」
次の瞬間、俺は慌ててルードの体を女から引き剥がした。

女はいつの間にか、ぽっかりと目を開いていた。
女の目に視線を合わせたまま、ルードの両眼からは涙の雫が溢れるように流れ出していた。


「・・・・・・・あいしてる。」

柔らかい声で、女がささやいた。
その声の調子に、俺まで思わず一瞬、引き込まれそうになった。

「まだこんな力が残っていたとは・・・」


「いいだろう・・・・お望みどおり、死なせてやるよ!」
振り向くと、ルードは柳眉を逆立てて目尻も裂けんばかりの形相になっていた。

「ただし・・・ただじゃ死なせない。・・・・あんたを囮に、もう一匹を釣り上げてからだ。」

ルードは血の気の失せた女の顎を掴むと、手荒く引き上げて残忍な笑顔を浮かべた。

「・・・・愛する男が自分のせいで地獄に落ちるさまを見るがいい。」


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