65.覚醒(1)
Luva
日の曜日の昼下がり
アンジェリークがキッチンで昼食用のパイを焼いている。
こんがり焼けたパイを皿の上に並べてアンジェリークは私を見てイタズラっぽく笑う。
いたずら好きな彼女は時々パイの中に小さく丸めた紙切れを忍ばせておいたりする。花や星のマークが書かれたその紙は彼女に言わせると「あたりくじ」なのだそうだ。
当たらなかった方が、当たった方にキスを一つプレゼントする。 ・・・・・要するにどっちがあたっても結果は同じだった。
あたりくじを引き当てた彼女は、嬉しそうに手を後ろで組んで目をつぶった。
口づけを待っているあの人の表情はとても可愛くて、私は思わず両手であの人の華奢な肩を引き寄せる。
だけど 今日に限って、引き寄せようとしたあなたの体がどうしてもつかまらない。
アンジェリークは閉じていた目を開けて小首を傾げた。
おかしいな・・・・
私も首をひねった。
確かに彼女を捕らえたつもりだったのに。
私は段々焦り始めた。 どうしても彼女が捕まらない。
「アンジェリーク・・・」
私はすがるような声で、少し離れたところでじっと私を見つめている彼女に呼びかけた。
お願いだから、そんなたちの悪い意地悪をしないで欲しい。
あなたに触れて、あなたにキスしたいのに。
あなたに触れることが出来ずに、私の体は段々乾いてひび割れはじめていた。
私はびっくりして、思い出した。
そうだった・・・私が空っぽになって砂漠の真ん中に立っていたときに、あなたがやってきて私の中に水を入れたんだった。
だからあなたがいないと私はやっぱり乾いて空っぽになってしまう。
このまま乾いてもう目覚めることもないのだろうか?
あなたのことまで、全部忘れてしまうのだろうか?
そしてあなたから忘れられてしまうのだろうか?
あなたから忘れられる? ・・・・・それだけは嫌だった。
忘れられることが、身を切るように怖かった。
助けを求めようにも、のどが干からびてしまって声が出ない。
私は必死になって訴えるようにアンジェリークの目をみつめた。
だけどアンジェリークは私に気が付かない。
ふと見ると、私の体はもう8割方ひび割れて崩れかけていた。
もう私は私じゃなくて、ただのモノみたいだった。
もうダメだろう。これじゃもう、あなたは私に気が付かない。
悲しくて泣き叫びたいのに、からからに乾いてしまっている私には泣くこともできないのだ。
ふいにあなたの唇が動いた。
「ルヴァ・・・・・。」
あなたの翠色の瞳から一筋の涙がこぼれて、その涙は私のひび割れた体に静かに吸い込まれていった。
静かに・・・・優しいさざなみのように、 私の中を満たしていった。
目を開けたとき、一番最初に視界に入ったのは、懐かしい、とても懐かしい翠色の瞳だった。
アンジェリークの、暖かくて優しい翠色の瞳が、じっと私の顔を覗き込んでいた。
夢を見ているのだろうか?私はぼんやりと思った。
夢ならもうしばらく覚めないで欲しい。 まだ少し、どこにも行かないで・・・ここにいて欲しい。
私と目があうと、アンジェリークは一瞬驚いたように目を瞠って、それからゆっくりと立ち上がると、壁際のインターホンを取った。
「意識が戻ったみたいです。」
しっかりした冷静な声で彼女はそう告げた。
意識がはっきりするに連れて、これが夢ではなく現実だと言うことがはっきりしてきた。
いっそ夢であってくれたら良かった。
現実はやっぱりとても残酷だった。
ベッドサイドに戻ってきたアンジェリークは、タオルでそっと私の汗をぬぐいながら、決して私に笑いかけようとはしなかった。
「アンジェリーク。」
私はもてる勇気を奮い起こして、彼女の名を呼んだ。
アンジェリークはゆっくりと振り向いた。
「はい?」
「少し、話をしませんか?」 我ながら情けなく、声が震えた。
アンジェリークはゆっくりと私に頷くと言った。
「はい。・・・私も、お話したいことがあります。」
「・・・・なんですか?」
「有難うございます。」
「・・・えっ?」
「また私のことを助けてくださったんでしょう?有難うございます。」
アンジェが私に向かって深々と頭を下げるのを見て、私は死刑を宣告されたような気持になっていた。
やっぱり、当然ながらアンジェは私のことを許していない。
私は慌てて弁解を始めた。
「・・・・聖地を出てすぐに、あなた達を探したんです。探すために旅をしていて、たまたま事故に遭ってカイゼルにたどり着きました。そこであなたが再婚していることを知って・・・・それで、あなた達にはもう新しい生活があるんだと、そう思ってたんです。」
私は段々話すのがむなしくなってきた。
私の言葉は口を出る先から空回りしていた。
アンジェはうなずきながら耳を傾けていたけれど、私の言葉は彼女の耳に入っただけで、心までたどり着いていないのは明らかだった。
「話は・・・それだけですか?」
「・・・すみませんでした。」
「別に・・・・謝ることないですよ。」
彼女は、赤の他人にするように、私に愛想よく微笑んでみせた。
その笑顔はいちいち私の胸にこたえた。
怒ってなじられた方がまだましだった。 私のことなんかもう、あなたには気に止める価値もないというのだろうか。
みっともなかろうが未練がましかろうが、何と言われようと構わない。
私はなけなしの勇気を振り絞っていった。
「あなたを愛してます。ずっと、あなただけを愛しましてた。私は・・・・」
「止めて下さい。」
何か恐ろしいことでも聞いたかのように、アンジェは椅子から飛び上がった。
「もう・・・許してもらえないんですか?」
「今、奥様と連絡を取ってますから。すぐ、迎えに来てくださいますよ。」
「聞いて下さい。彼女は違うんです。」
アンジェリークの表情が瞬時に険しくなった。
アンジェリークは私の顔をまっすぐに見ると、責めるような表情で言った。
「いい加減にしてください!子供はどうするんですか?子供には親が必要なんですよ?生まれてくる子供まで片親にするつもりですか?」
「アンジェリーク・・・・。」
もう言い訳する気力も湧かなかった。
黙り込んでしまった私の前で、再びアンジェリークが深々と頭をさげた。
「ごめんなさい。命の恩人に失礼なこと言いました。ご家族を大切にしてさしあげてください。・・・失礼します。」
アンジェリークは、私に一礼すると、静かにドアを開けてその向こうへと去っていってしまった。
これで何度目か、私とあなたの間の扉は音をたてて閉まってしまった。
そして今度こそ、もう二度と、開くことはないのかも知れない・・・。
すべて自分で蒔いた種だった。
最初に鍵をかけたのは私で、
私はその鍵をどこかに無くしてしまったのだった。
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