<シーソーゲーム.3>
それからずっと、その人のことが頭から離れなかった。 無理やり、理不尽に唇を奪われた。 ショックだったけど、感じるのは何だか怒りだけではないような気がした。 その人のグレイの瞳は優しげで・・・気弱そうにすら見えた。 触れた手は優しかった。 表情は、なんだか少し寂しそうだった。 なぜ・・・・・? なぜなんだろう?・・・・なぜ私にいきなりあんなことしたの? 頭の中で疑問符がくるくるしていた。 授業に出ていても講義の内容なんか少しも頭に入ってこない・・・・。終業のベルが鳴ると、私はため息をついて席を立った。 放課後は就職指導室によってから、部室にも顔を出すことになっている。 カバンを提げて、ぼうっと廊下を歩いていると、突然、背後から声が聞こえてきた。 「プロフェッサー・クロフォードと3時に面会の約束をしているのですが・・・。」 きれいなテノールの声 ――― 私ははじかれたように振り向いた。 彼だ!――― 受付で長い背をかがめて名刺を差し出しているその人物は、まぎれもなく、私のファースト・キッスを盗んだ張本人だった。 30分もしないうちに、彼はビジネス用のブリーフバッグを片手に校舎から出てきた。 待ち構えていた私は車にキーを押し込もうとした彼の背後から思いっきり叫んだ。 「待ちなさい!」 その人はゆっくりと振り向いて、私の顔を見ると明らかに驚いたような表情になった。 「・・・・あなたは・・・・・。」 「・・・・ファースト・キスだったんだからっ!」 上目遣いに睨みつけながら、今更のようにじわりと悔し涙が浮かんできた。 その人は慌てたように帽子を脱ぐと 「すみません!」 そう言って、深々と頭を下げた。 「理由を言って下さい!でなきゃ納得できません!・・・・そんなの、すみませんなんかじゃすまないんだから・・・・。」 「本当に・・その・・・すみませんでした。あの・・・理由はその・・・言えないんですけど・・・・私に何かできることがあれば・・・。」 しどろもどろになりながら、その人は本当に弱り果てているように見えた。 「日曜日。朝9時45分!」 私は咄嗟に、たたきつけるように言った。「ノースポート駅の改札に来てください!」 「えっ?」 「来てくれなかったら、私、あなたのこと許さない!一生恨むから!」 「・・・・分かりました。」 その人は観念したかのように、真面目な表情でうなずいた。 「待って!」 一礼して車に乗り込もうとするその人の背中に、私は思わず再び声をかけた。 まだ何か・・・何か言い忘れたことがあった気がする。 「・・・はい?」 グレイのスーツを着た広い背中が、ゆっくりと振り返った。 「 あなたも・・・使ったの?」 「・・・・・えっ?」 「あのアルコール。・・・あなたも消毒したんですか?」 その人は一瞬口ごもった後で、「・・いえ・・。」 と、短く答えた。 気のせいか、目の前で、その顔がちょっぴり赤くなったような気がした。 「そう・・・・。」 背を向けて歩き出そうとすると、背後から今度はあの人の声が聞こえた。 「あの・・・。」 「何ですか?」 「あなたは・・・その・・・使っ・・たんですか?」 「あたりまえでしょ!」私は手を腰に当てて叫び返した。 ああ・・・。とか何とか、その人が気の抜けるような返事を返したのを聞いて、私は不覚にもちょっぴり吹きだしそうになってしまった。 あの時の小さなビニール袋を、私はなぜかいつも制服のポケットに入れて持ち歩いていた。 私はポケットに手を入れると、小さな袋をつまみ出して、勢い良くスーツの人物に投げつけた。袋は未開封のままだった。 「つつしんでお返しします! ・・・こんなもので帳消しになると思ったら大間違いですからね!」 無言で目をぱちくりさせているその人物を前に、私はゆっくりと背を向けた。 |