―――彼は誰よりも深慮に長け・・
思い遣りに溢れ・・
何よりもまず、熟さぬ者の味方だった。
なればこそ・・彼女の魂を捕らえ・・彼女に愛されし者となった―――
―――彼女は誰より慈愛に満ち・・・
優しさに溢れ・・
力弱きものを包まんと自ら努めた。
時至らぬ折には・・その気質によりて・・
至れりし後は、背の両翼によりて・・
なればこそ・・彼の魂に見いだされ・・・
彼に恋われし者となった―――
けれど、どれほど互いが互いを望んでも・・
決して成就は相成らぬ。
彼女が天を支える尊き御身であり・・
彼もまた・・天の守り人であるが故。
―――そして・・・二人が背負いし、余りにも重きモノは・・・互いを引き離すことをしか善しとしなかったが故に―――
聖地の夜は、もう・・・かなり更け、今夜も猫の爪ような月が濃闇の大気にぶら下がる。
こんなに遅くまで起きているのは、きっと夜警の者と闇を愛でる守護聖くらいなものだ・・
いや・・今宵はもう一人。
読書を常とする知の司が
とうに訪れる筈の眠りを拒んでいた。
ルヴァは、普段なら就寝に就く刻をとうに過ぎても、
何時ものように・・何時もより長く・・
分厚い皮の背表紙を開け・・
だが、どこか心虚ろで此処にあらずといった風情で、薄い頁を捲る。
物憂げに・・
懐かしむように・・
或いは・・悔やむように。
ふと、閉まっている筈の窓からの、
在りえない空気の揺れを感じ・・・
読み指しの本から目を放し、顔を上げると・・
はらり。
櫻の花弁がルヴァの目前に一片、二片と舞い・・注意を惹くように本の上にそっと留まった。
まるで『読むのを止めて。これを・栞にしてくれるっ・・?』・・そんな風に云っているような気がして自嘲気味の笑いを浮かべた。
かつて・・・そんな風に自分の読書の時間を止められるのは"たった一人"しか居なかった。
そして・・、
―――今ではその"たった一人"はもうこの世界の何処にも存在し得ないので―――
と・・そのまま回想に更けようとする意識を惹こうとするように今度は、
ふぃっ――と、秘密めいた淡い香りが鼻腔を掠める。
―――確かに誰かが―――
・・・・呼んでいる?
言葉でも、音でもなく・・何か云い様のないおそらくは想いのようなもので。
急に・・感情が昂ぶり、泣きたくなる不思議な予感に襲われる。
それでも・・声なき声に逆らうことなど考えもつかない。
ルヴァにとって・・・今、届いている波動は
泣きたく為るほどに懐かしくて、愛しい者のソレであったから・・。
誘われるままに窓を開け、室内履きのまま外へと飛び出ると・・
――ひゅるるる・・
花の香を纏う一陣の風が一度散った筈の淡い紅の花弁を巻き上げ、渦を作る。
花弁は舞い上がり・・
ルヴァの視界は刹那・・花の色に染め上げられ。
そして・・次の瞬間、それが収まると同時に淡く霞んで現れたのは・・
どこか幼さを匂わせ・・それでいて艶やかさをも兼ね備えた不可思議な雰囲気を纏った・・朧げに揺れる・・人型の幻。
信じられないものを見たふうに目を見張るルヴァの目の前で、
指先が・・輪郭が・・
次第に形をはっきりと整えていく。
そして・・その姿が、ルヴァの記憶中に在る"アンジェリーク"という名の娘と一致した瞬間―――声が耳に届いた。
「・・逢いたかった・・ルヴァ。」
以前と全く変わらない声で、姿で・・
そう・・聖地に於いては・・
そう遠くもない昔に此処を去った・・
永の刻が過ぎ去った、かの地にて眠る筈の。
かつて・・
ルヴァにとって魂の半身だった――
そのヒトが微笑っていた。